からっぽ

 

 

昨日と今日と体温を計ったら同じで、体温も一定なのかいなと思ったら、体温計のケーズに載っているサンプルの温度と同じだった。共時性を一瞬想ったけど、そこまで幻想的には生きていないから、一応グーグル先生を確認。どうやら、平均体温が36.8ということらしい。ふむふむ。

 

そういえば、僕の身長も日本人男性の平均身長だったような。今はもう少し高くなっているのかもしれないけど。そうです、僕が一般的で平均的な日本人です。まぁ普通ではあるともう(大嘘)。

 

僕の日記というか、文章ないし存在で暖をとっているなんて感覚は普通ではありえないのだけど、問題は、僕がそれによって何もプラスになってないということ。ありがたいとか嬉しいとか、そうだったら良いとかでもない。さらにこれは別に好きな人だけの話でもなく、何人かそうなのではないかと観測される。もちろんこれとその人の中身はきっと関係ない。関係ないところの関係。

 

ほんとか?

 

 

ともあれ。

 

現実的な世界の話。こうやってふわふわ書いているけど、現実生活は当然滞りがない。雇用の切り替えの関係で無茶苦茶有給余らしてしまったみたい。まぁどうでも良い。生活の大事さもよく分からん。

 

ただ、なんだか、人の発話について鼻につくかどうかの判別は言語化できそうな感じ。派遣の営業の人と、ねっとり話す同僚と、同期も含めた共通項。結局自分の為の言葉しかない。だいたいの人の共通項なのかもしれないけど。

 

ねっとり話す後輩と一瞬話したのだけど、自分にとって相手がどうかという視点しかない。人によって話し方が違うのも気になる。先生に対してはねっとりだけど、もう1人の女性上司に対しては礼儀正しい。

 

なんか面白いなと思うのは、先生は結構満遍なく部下に対して会話を投げてケアしているのだけど、僕に対してはそういうのがない。こういう非言語の表現が好き。気分をいちいち上げなくても稼働するだろうという感じ。僕は先生を会話嫌いの対話好きと見ているので。。

 

僕の言葉に下心がないと気づける人はちょっと違うのかもしれないけど、だいたい発話って意図が伝わるから、相手が言葉通りに動くまで効果の為にあるのが普通。僕は効果はどうでも良いから逆に制限かけた方が良いのではないかと思う次第。

 

それが恋文だった。

 

個人的にあえて言わないで良いなってことが多い。今日の例だと、派遣会社の営業との面談が終わったあと、どんな感じだったのって対面の先輩に聞かれて、まぁ就業状況どうですかって感じですねって答えたら、対面の人が変なのですとか苦情があるよなって自虐が始まった。これに対して、僕は特に否定もしない。何故なら、そんなこと思っていないことは行いと僕の存在が証明しているから。馬鹿にすることはないということは分かっているから、これが冗談になる。

 

ふふふで終わってしまう。ナチュラルに僕に敬意があるように見えてしまう。先生とこの人はほんと好き。まぁ、当然僕が敬意を払っていることも前提なのだけど。

 

年齢でマウント取らないことが良いというのは、ねっとり話す後輩が昭和生まれですって言ったらそれは平成と変わらないって言う自分の時系列でしか話せないところで対照的だなと。

 

同期が先生と話しているときに、うっかり敬語が外れるところもちょっと気になる。仕事として上司を使うとしか認識してないだろうなと。

 

要は、僕が人を見る視点は、この人は人を自分のために消費してないかということ。好きな人は他人を自分の為に使っているように見えるのに、僕を一切消費対象にしないのが愛しい。ほんとにはじめてだった。

 

日記では自分に対して何かをしてくれることが他人の存在の効用なのに、僕を使ってくれても良いよって言ったのに一向に使ってくれない。

 

(デートに対してどういう意味合いで腰が重いのだろう、期待してないから失望もないんだけどな)

 

 

持つとあるの、「生きるということ」は馴染み過ぎてわらける。

 

学習に対する持つの人はひたすらノートを取って、情報を外部媒体にすることに傾注する。

僕はほんとノート取るの駄目で。自分の字も汚いし記録で再現できる情報も他人事だし。

 

 

これはどうでも良くて、結局は自己観の話。

 

 

人との対話の話があり、持つ人は自分の信念があるから、対話の心地よさは自分の見解を相手に納得させるか相手がそもそも自己観と共通項があるでしかなく、自分を変化させるとか、自分と反対の他人を受け入れる土壌がない。

 

ある人は対話に自分を準備していないから他人の見解に対して十全に反応できるというのは、別に自分を決めなくても自分は変わらないところにあるということ。

 

僕はこの水準で自分があるから、誰かが僕に対して評価することなんてどうでも良い。

 

やはり、僕は他人が僕にしてくれたことで相手を見ていない。だから、好きな人が僕をどう見ているのかは気になる。僕は人の怠惰に対しては甘やかさないけど、その人がその人であることは当然に尊重する。

 

抱きしめたいというのも、所有的ないつでも触れるというパートナー性でもなく、ほんとに物理でそれがあるとすれば。

 

 

最後。

 

人ってきっとほんとの自分は見たくないだろうな。だから、社会的な存在として自分を規定する。

 

 

では、おやすみなさい。