本能

 

 

 

昨日の日記でだいたい書いているけど、「結局分からない」ということはとても面白い。親密=既知のものという観念しか見えなかったから、人を未知のままにするというのはとても新鮮。

 

自分も未知で良いという風にしたところ、時間が遅く流れることに気付く。休みの日でも無為に時間を流さない。まだ土曜日だ。ただ、まだ余地はある。これって、別に意志で時間を切り詰めるということではなく、何かから逃げなくても良い自分で良いみたいな感じ。二度寝も良いし怠惰も問題ない。いちいち罪悪感に囚われるのが良くないだけ。

 

本日のお月様はぴったり半分。家を出た時間がちょうど良くて、視線を動かすだけで半月と夕焼けとイチョウの黄緑を見ることができる鮮やかな風景を過ごした。

 

風景の移動で言えば、無性に伊勢神宮に行きたい衝動。もう別の人と2回行ったからだいたい道とか風景とかは覚えているのだけど、1人で行くのも悪くないだろうなと。そういえば熱田神宮には行ったことないから未知だな。草薙剣だっけ。出雲大社も既知。この文脈で東京で行きたいところもできた。逃避的に行きたい訳ではないからもう少し調整が必要ではある。行くならちゃんと自覚的に行くべき。

 

という感じで、今日は三角関数と格闘していた。数学できない人は一生できないみたいなことを見た気がするがあまり関係ない。概念の拡張のためのこと。これがベクトルとも繋がっていて、行列にも連動している。分かりそうでなかなかわからない。でもこういうのを含めて色々放っておいてしまった結果がホコリを被った自分だった訳で、なかなか先は長い。

 

まぁ放ってきたことは人それぞれで、今の自分が感じる不具合はもしかしたら放ってきた自分からの復讐なのかもしれない。あくまで人によるけれど。数学は思考の遡上に上げやすくはある。実生活とは全く関係ないし、なんで1ラジアンが57.3度なのだって。

 

実生活に関しては思考より行動が意味を持つから、行動を鋭くした方が良いけども。言葉が行動なのかという命題はなかなか難しい。言葉を自分の生命の表現だとして使うのであれば行動だけど、言葉を意識的に使えないのであれば、自己の内部にしかないのかもしれない。

 

別に好きなことを発すれば良いと思うけど、僕の好みは自分の言葉がどう読まれるかを意識しながら主観で言語化できる人。Twitterはそうかもしれないけど、あまりに主観がないように見える。他人より自分が分かっていることが分かったところで自分のことは分からんのになぁと。

 

 

まぁ良いや。

 

人が人に懐くという概念について考えていた。

 

懐くの定義もよく分からないのだけど、自分にとって有用かどうかの経済的合理性とは別に、本能的にこの人なら大丈夫かと捉えること。

 

僕は割と現実で見知らぬ人に会うのは問題なかった。この人は別に脅かさんだろうなというのはなんとなく分かるので。問題は、相手が僕をどう捉えるかであって。相手から、あ、セックスしないの、みたいなこともあったな。ここは闇深いので省略する。

 

人を動物属性として捉える傾向。

 

猫とか犬とか。

 

僕は気まぐれだけど、割としっぽを振ることもあって、どっち属性かというとよく分からない。もうバクで良いじゃないかと思うけど、夢喰いバクの生態が全然わかっていない。

 

美味しい無意識はないかという巡回をしているという意味では近い。

 

今日猫を2人見かけたのだけど、猫は基本的にめっちゃ見てくる。見ないようにすれば、向こうが気になって来る感じ。猫も犬も好きだったけど、今や物理的温度はほとんど求めていないから、物理的に触りたい存在は1人で良い。というか、僕を触って良い存在。

 

僕がまともな大人とされている人達が、全然まともではないと思うのが、自分が生きている世界の仕組みを把握していなくて、自分の範疇でしか世界を見ていないこと。確かに範疇をを決めないと生活が滞るかもしれないけど、それで他人を決めるのはおかしい。

 

でも、他人を決めることで相対的に自分が高まるという宗教観も分からなくはない。これも一種の信仰でしかないけど、現代では当たり前になっている。

 

そろそろ恋文を送りたいのでここまで。

 

自分が関係の中で決まっていませんように。