自己分析(深)

 

 

「どこまでも見通したいと思える人間の前で、謎を保有し続けるなんて不可能に近いよ。」

 

 

今日は大変だ。

 

さておき。残りのかまぼこは万願寺唐辛子とごま油、ほんだしでレンチン煮。かまぼこの味が濃いと思っていたのは板わさの思い出だったのかもしれない。ちくわの方がよほど濃い。そしてじゃこ天はいがいがするという思い込み。ちゃんとする事務処理も1つ済ませた。保険の切り替えの時に漏れていた公課を一括で支払い。明日は家賃ともう1つ。これは毎月のやつだから遅れてはいない。口座振替にしたいのだけど、平日に申請の電話をかけないといけないという時代遅れな制度だからなかなか。でもこういうのもショートカットしていかないといけないとは思う。

 

確かに、これだけ目を開いて来たのにここが死角になっているということに疑問すら感じなかった。いや、億劫だからでしょ。で、済ませる程、微睡んでいないはずだろうよと。ちょっとした行為であとはしなくて良いのだから、毎日の弁当より確実に楽であることには違いないのに。

 

こういう地平に至ったことについて、人に対してちゃんとできるために自分のことをちゃんとするという迂遠なところからやっときたかとのほほんと思って居たのだけど、どうやらそうではなかったらしい。

 

今朝の話。

 

別に現実的に具体的な何かがあった訳でもないのだけど、個人的主観的にとても満たされて、これが自分にとっての「幸せ」で良いのではないかと思った。鼓動が高まるとかではなく、心臓辺りの感覚が物理的にあふれる感じ。

 

そうして二度寝に入るのだけど、姉、妹、僕が三人で蒲団を並べて寝ている。これはもちろん具体的な記憶としての姉、妹ではなく、精神に刻印された何かそういった像の集合体。

 

姉は寝静まって、妹と、兄妹らしからぬ親し気な会話をしている(これは幸せの方から引っ張られているのであって、現実の妹とそんな関係にあった訳ではない、念のため)。すると、いつの間にか姉的な像が起きていて、二人の肩を鷲掴み、「なんでそんなに楽しそうにしてんねん!」みたいなことを怒鳴る。形相がまさに鬼のようで、肩に残る感触とも相まって滅茶苦茶リアリティがあった。

 

僕はどうしたかというと、すぐ起きて、余韻に対してその怒りは自分の幸せに向けるエネルギーにしたら良いのにって姉的像に対して思っていた。そこからはうとうとしそうになるとこの像が近くなってくるから寝られなかったけど、まぁ良い。

 

これで生霊的なものを感じる程には呆けていない。姉は僕が世界から居なくなって随分すっきりしていると思うし、僕に憎しみをかける現実的な理由ももはやないだろうし。

 

ここからは個人的無意識の解釈になる。なんだか自分が幸せであることに対してかなりの反発があるようだなと。別にほぼ自家発電で、相手の現実にも関与していないのだからええやんと素朴な自分は思うのだけど、それでも自分が充足されることがお気に召さないらしい。

 

この幸せであってはいけないという自己意識を探るためには、具体的な記憶を遡るしかないだろうなぁと、自分の歴史との対話。

 

確かに、原初の辺りの小学校低学年くらいまでは妹とはまぁまぁ遊んでいたかなという気もする。まぁお兄ちゃんなので、無条件の信頼とまではいかなくても、まぁこいつは大丈夫だろうとは思われていた。ちなみに呼び名は「おにい」だったな。

 

翻って、個人的に姉には親密性を感じたことがない。姉として弟を守るみたいな精神性は全く感じたことがないし、むしろいつもなんだかんだ敵対性というか毒があった。

 

でも、なんとなく、姉が感じていた寂しさは理解できてしまう。「家」の中でも長男である僕が居る限り重宝されない。認められようと努力したところで、僕が居るからそれも無理だし、愛は末子である妹に注がれるし。それに加えて母親という大災害は真っ先に姉に向かうし大変だったろうなと。

 

こういう文脈で見ると、第二子に僕の名前を入れて大丈夫だったのかと思わなくもない。

 

ただ、理解できることと寄り添えることは別物で、おそらく僕の存在自体がコンプレックスだと思うのよね。

 

思い出すのが、母親と姉がろくでもない口論をしていて、〇はどっちの味方なのと言われたこと。そのときの僕は曖昧に濁してしまったのだけど、今ならどっちの味方でもないわって切り捨てたい。味方が居ることは自説の補強にはならんよねって。これは姉が僕のことに一目置いていたという証左でもある。

 

もう一つ別の線で、姉からも妹からも僕はひょうひょうと自由に生きていると観測されていると思われるのだけど、これは、今から思うと、そうではなかった。いつから殺したのかは分からないけど、自我を殺して、相手の世界から観測される自己像に自分を重ねることによって生き延びていただけ。

 

ただ、この世界には「僕があまり発話しない人格」だというのが付加されていたからとても楽だった。人間失格でいう意味には笑っていたと思う。ニコニコしているとか、造形のまともさとかでなんとかやり過ごしていた。

 

で、ここからの派生で、他人の世界に含まれたときにはそれを断ってはいけないという規範ができて。告白は断ってはいけないとか、飲みの誘いは断ってはいけないとか。

 

今思えば、家族親族と会うときはいつも緊張しているのだけど、そこには自分の人格像が規定されていると思い込んでいるからなのよね。

 

まぁ意味が分からないと思う。きっと自分のしたいことが先にあって、その後に天井というか壁を感じるとかが普通の人格形成だろうけど、僕の場合は、規定値があってその中での自由という意味。

 (実家に帰る度に、漫画で見た、蚤を小さな箱に入れるとその箱の高さまでしか飛べなくなるイメージが頭の中にある。次の日付記。)

 

こういう人格形成によって、主観的に他人は別存在だとなりつつあるのだけど、相手が自分を当人の世界に含んできたら、ではその土台で接しましょうかとなるのだろうな。

 

自分のほんとうにしたいことが分からないというのは別にどうでも良い気がする。高校時代の学部選びも文学部とか経済学部とか、やたらと色んな学部を設定していた。もともと自己観に注視していないから、渡り切ったとも言えるし。

 

ただ、満たされることに対するカウンターは別物だろうよと、きっと僕が僕であることへの罪悪感だろうけど、ここも気にしなくて良いよ、そんなに怒るなと自分を宥める。他人の世界での自分の異物感はあるだろうけど、異物のままで良いって観測してくれている人が居るじゃんって。

 

 

本日は、僕の個人的無意識からくる自分への憤怒との対話でした。

 

おしまい。