憤怒

 

 

全く必要じゃないのに全てを求めて良いのか。

 

 

 

引き続き本日も夢からえらく怒ってはる。

 

家賃も諸々も払ったし、リセッシュの詰め替えとマスクの予備とシェービングクリームも買ったし、食べたいと思っていた納豆もオリーブオイルと塩とわさびで食べている。しいて言えば蒸し焼きようのアルミホイルはなかったが。そういう問題でもないらしい。

 

ただ、存外すっきりしているという不思議。

 

夢。引き続き、新しくない方の実家みたいなところで、親戚筋というか同年代の姉、妹を含めた従弟達が、僕が居ない場で僕のことを嬉しそうに語っていた。発話者はもちろん姉。「仲良くなった人とダンスをしていたんだよ」と。ダンスなんかしたことないわ。その後、その場に居合わすのだけど、同調しようとして拒絶される。そうしてイライラしてふて寝して夢は終わる。

 

こうやって夢は終わったのだけど、自分の意識の一部にひたすら怒っている部分が可視化される。不機嫌では全然ない。外交上はむしろ余計に元気だった。現在進行形で在るのだけど、自分の右側に自分に向けた純粋な憤怒が居る。

 

まぁ精神分裂とかではく、「喜」があるなら当然「怒」もあるよなという感じであり、僕の一部なのだけど、あまりに看過し過ぎていたカウンターなのだろうな。

 

昼休憩くらいまでは、この憤怒は他人に対するイライラどころではないなと恐々としていた。これは分裂ちっくだけど、その部分をつついてみたら、やたらめったら言葉遣い悪くわめき散らすの(頭の中で)。うるせーとか、俺はなんたらかんたらとか、わー(叫び)とか。ほんとに対話できる。めっちゃ反応早い。「すべてがFになる」が想起される。

 

思わず、グーグル先生に憤怒について聞いてみたら、臨床心理学の論文とか、すでに持っている「心は何故腰痛を選ぶのか」とかが出てきた。臨床心理学の論文で罪悪感とセットのようで、まさにそうだなと思った。ちらっとしか読んでいないけど。

 

あと憤怒と侮蔑を切り分けているというブログが出てきて、なるほどなと。

 

この憤怒の感情、自分にしか向けられていないのだけど、侮蔑ではない。むしろ、侮蔑をしてきた自分の罪悪感に対してかなり立腹されている模様。うるさいけど怖くはない。自分を否定することに怒ってくれているって、良い奴じゃんと。

 

なんとなく現実化してしまったけど、こんなのは本来無意識化で統合されている訳で、おそらくそんなに不思議なことではない、はず。腰痛の本でも抑圧された怒りが無意識に収納されて痛みという現実になるということだから、精神とか意識とか体の領域ではこんなこと茶飯事なのでは。

 

で、僕の憤怒は、世界に対しては怒っていないらしい。夢には像として色んな人物が出てくるけど、結局はその時の自分がどうだったかということを問題としている。確かに人は世界から影響を受けるけど、自分にもっとも影響を与えるのは自意識だよなと。年中無休24時間体制で影響を与え続ける。

 

変な話、ずっと自分を守らなかった自意識に対してそうとうに腹を立てているみたい。

 

じゃあほんとにしたかったことって何なのって問うても、知らん!って返されるのだけど、悪くない。というか、僕の中で一番善きものなのではと思う。

 

虚構ではないけど証明不可能だからこんな話は誰にもできない。決めつけられた像で接されたらこいつが自覚的に活躍するかもしれん。まだよく分からないから、地道につついていく。これが守護霊というやつか?(飛躍

 

ともあれ。

 

本の話。

 

徒然草からの黒猫さんの流れはとても美味しい。

 

徒然草は、物に付着した過去へのわびしさを書いていた。その時の自分への回顧。

 

 

「テクストは読むものではなく、読まれるものとして創造された言葉。」

 

芸術家は他者性に辿りつくための精神の昇華のために薬物に手を出したというのもなんとなくわかる。俳優とかもそうかも。鑑賞者は生活もちゃんとある素朴な人格として芸術の他者性を一方的に食べるわけで、そうやって他者性を食べていたのに、その中にいる個人がどうのに影響を受けるって矛盾している。

 

でも、このSNSコミュケーションがそもそも他者性の関わりにもなるのか。自分も他者として良い、みたいな。

 

で、他者性で考えると、僕の演劇も感想文も全然主観的ではないなと思った。これは自分を他人事にしている訳ではなく、主観的に世界において言語は要らないのだから、そもそも他者性が前提とされている。僕にとって読まれるものだけど、別に僕だけに読まれるものではなく、創作者も含んで。

 

結果がどういう風に見えたかたと、どういう建築工程だったのかを見るが重複した感じ。

 

あと、ゾクッとしたのが、「言葉で書かれたものは現実を書き換える」というフレーズ。

 

これは個人的にはまさに在ることで、言語化したことを明日の現実にするとか、あるいは言語化することであえて現実化しないとかもある。

 

で、別に僕の言語と現実の関係はこれで良いのだけど、影響範囲を考えると、誰かの現実も書き換えてないかという可能性。

 

確かに言葉は遣い方によっては自他をマインドコントロールできるものだし、言葉自体が現実の一部ではありうる。

 

あぁ、だから箱なのか。言葉にしたものは自分に返って来る。

 

僕は言葉で自分を決めていなくて、言葉は自分の表現くらいな意味しかないのだけど、言霊的には反響してしまうのはしょうがない。

 

では、おしまい。