傾向ではないその人

 

 

カーキ色の靴が届いたので履いて歩いてみた。色味とか靴紐とか少し足より大きいとか若干イメージとはずれたけど、きっちり紐を縛れば問題ない。あとのは、新しい装いに最初は馴染めないというだけだからそのうち。

 

 

さておき。

 

僕の人生に目的があるとすれば、もっと面白いものを見たいというところにある。日常で十分面白いけど、もっと美に触れたいところ。いや、今日の染まりつつある銀杏も十分綺麗だし、あんまり目的という感じもしないな。生きるということを意識しなくてよくするための生活態度、はて。

 

そういえば、持つ様式の人の信念は外付けの行動規範で、ある様式の人にとっては態度というのがあったな。行動規範は未来に向けた自分ルールだけど、態度は言語化できるものではなくのちのち結果になるもの。

 

 

僕の根本もきっと他人のことがどうでも良い。これは自分のための他人でなくても良いし、他人のための自分でなくていいという意味で、若干アドラー心理学ぽいなと思った。そうではなく自分のあるべき姿、したいことを優先しようというフレーズを見たし。他人から承認されることは嬉しいことだけどというのが先にくるのだけど、承認が嬉しいかなぁという感じ。

 

僕は誰かが嬉しかったり笑っていたりすることの方が嬉しいような気がする。どこにもなにも作用しない嬉しさだから固有。もちろんこれは存在には関係なくて、満月とか紅葉とかと変わらない。いや、違うときもあるかも。僕でそうなったことに対しては少し違う気色かもしれない。

 

そうこう考えていくうち、自分を傷つけ得るものは自分しか居ないよなと思った。どれだけ自傷してきたのだって。もっと目を開いて良いし考えて良い。

 

本日も面白いと思ったことが多々ある。

 

色覚の本は重い話から遺伝とか進化論的な意味でのメカニズムになってきた。人間と近い猿の生態で、色覚異常とされているのは、多様性だったみたいな。赤みに強く反応できることは、熟した果実の見分けが付きやすいとか。

 

それで味覚の言語化について考えたのだけど、視覚と触覚の描写は比較的しやすいけど、味ってかなり難しい。濃厚とか、激辛とか、一応表現する言葉はあるけど、味覚って個人的経験値と個人的遺伝子の集積だし、特に伝える必要性があるものでもないから、僕が美味しいものが他人にとっても美味しいとは限らない。これって僕が料理を実際にふるまって美味しいと何人かが言ったとしても、全然一般化できるものではない。実例が何人になったら一般化できることになるのか。

 

知覚の話も要は人の知覚はバイアスによって制限されているということでというか、バイアスがないあるがままの世界なぞほぼありえないということ。検索サーチアイで情報を見る人は自分の思想とか価値観を補強するものにしか目がいかないし、揺るがすようなものに対しては攻撃するし。

 

人が動物を飼うって自分が優しくなりたいからなのかとふと2カ月前くらいに思ったのを思い出した。

 

持つ様式の人は所有に囚われているというのは法学的視点からもよく分かる。市民に所有権が認められたのはごく最近だし、所有権って物に対する排他的支配権であり、要は自分にとって思い通りにできること。

 

あと、言語がこの観念を補強するというのも分かる。自分観を言語化するということは、自分を所有の対象にするということ。自己紹介嫌いな人はこの固定化に違和感があるのだろうな。他人を持っている感も含まれるのか。

 

ベルグソンさんの「笑い」でも何故かこういう話になっている。「性格とは持続的な選択の結果だ」と。自分の性格を言語化するということは、過去に対しては証拠だし、未来に対しては予測できることだけど、だからと言って、自分が言語化した性格に囚われる必要はない。こういうのって自己言語化というより他己言語化感がある。

 

こんなの知ったこっちゃないにできないのは、誰かに自分が持たれているという感覚があるような。僕がそんな感じ。別にこの先でも今までと同じように選択しなきゃならない必然性なぞない。

 

なんだか、あくまで傾向でしかないものを一般化しているような。

 

例えば視力とか物理的な解像度が違うのに、他人も同じものが見えているというという前提になっている。この辺りに気付いたのも最近なのだけど、視力が精神に対応しているとはずっと考えている。実験とかできるものではないから定量化はできないけど、世界が閉じた時視力も落ちるのではないかって。

 

フロムさんの本で、所有欲から離脱するには空虚にならないといけないと神秘学者が言ってるという話があり、僕はもともとがからっぽだからこうなっただけで、それが良いとも思わないなと。

 

ある様式だって過渡期だろうけど、好きな人とはどうしようもなく一瞬でもありたいと思ってしまう。

 

言語の下りで、経験を言語化するとどうしても溢れてしまうというのは確かにと思った。どう収めようとしても無理で、言葉にした途端死んだ思想になってしまう。言葉を操っているようで言葉に操られてしまう。自分が承認される、相手を承認するためだけの言葉は要らないような。

 

こういう文脈で読んでも好きな人の文章はやっぱり好き。詰め込んでいる人は詰め込んでいるように見えるけど、言語から溢れた部分が良いのかもしれない。いや言語の注意深さもとても好きだけども。

 

こういう語用も、結局は自分がそれをしないと辿りつけないもの。感情の表現としての言葉って現実化の層で言えば最もお手軽。好き、大事だ、心配だって書く労力は現実でそう評されるエネルギーに比べれば大したことはない。あくまで自分の現実的な時間の中でやっていることでしかないし。そう言語化するなら、現実となったとしても一致させるべきだと思っている。覚悟の話。

 

でも、、いいか。

 

ともあれ。

 

新刊枠の人、感性が若いなぁって思ったら、同い年だった。まぁ、作家界隈は何百年の古豪がいるからうん十年だったら確かに若い。

 

本日読んだのは、事故で亡くなった妻に憑りつかれて、妻が鬼になるというなんとも雨月物語ちっくな話。黄泉平坂の話も入っている。死者の国の食べ物は口にしてはいけないとか。

 

僕が想う世界の面白さは、こうやって物語の背景が見えるということも含まれている。突き詰めていけば当人の人格にも寄っていくのだけど、そうじゃなくて、ちゃんと人が見えるようにするには自分もちゃんとしないといけないことで、このちゃんとは死ぬまで終わらない。

 

知ったかぶりはしないようにした。

 

好きな人には随分付き合わせてしまったので、現実的な僕に面白みを感じていないのであれば、そろそろ、単なるファンで居てくださいというメッセージが来てほしいところである。

 

半分だけの本心。

 

では。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。