精度

 

 

 

 

自分が分裂する夢を見た。

 

地元の駅の近く(とはいえ実家からは車で30分くらい)のところで働いていて、何か親戚の集まりでバスに乗って帰った(現実には家の近くまで走っているバスはない)。飲み会のシーンはカットされていて、起きたら何故か雪景色。新しい家から母屋には徒歩5分くらいで、何か親戚の集まりから母親への伝言を承り、帰ろうとする。しかし、廃墟の方の家で寝たらしく、起きたら昼過ぎになっている。そうして、地元の中学校の校庭で運動会みたいなシーンに切り変わり、いい大人になった従弟と僕も強制参加のようで、さかなさかなさかなーのBGMで紅白帽をウルトラマンみたいにして遅れて登場する。

 

その時、参加したはずの僕が何故か観戦側にもいた。で、参加した方の僕は小学生くらいに小さくなり、ラグビーボールを使ったラグビーではない良く分からない競技をしていた。競技者の僕が投げたボールが観戦者である僕の方に飛んできて、拾っているようなカットで終わり。

 

二度寝三度寝の夢は省略。

 

夢に昔の風景が出てくるのは、蓄積した情報量が圧倒的だから仕方がない。小学校のリノリウムの渡り廊下とか、中学校の非常階段の駄弁り場とか、鮮明だもの。ただ、思い出す風景は主観というより俯瞰だけど。

 

そういえば、「おやすみなさい」の夢の描写も多いけど(なんとなく採り入れてみている)、あれって、朝起きてすぐ書いたのでなければ凄い記憶力だと思われる。描写が遥かに細かいもの。文章力の差かもしれないが。

 

さておき。

 

昼ご飯の時、烏でも鳩でもない鳥の嬉しそうなさえずりが聞こえてきて、秋の実りを食べに来ているのだろうなと少しふわふわする。しかし、木の実って美味しいのかとの疑問を浮かべていると、ナンテンより少し大きい赤く熟した実が目に止まり、確かにこれは美味しそうだと思った。私立公園だからおあつらえ向きに説明文が載っている看板が提げてあって、そうやら「サンシュユ」という植物で、やっぱり身も美味しいらしい。鳥が喜ぶのも仕方ない。

 

本日の日記は夢の話からになっているけど、「見ることもできない、触れることもできない存在を抱きしめる手法を考えていた」にするつもりだった。「言葉には触ったことがない」というフレーズを見かけて、確かになと思索を拡げた結果、頭に浮かんだ言葉。

 

哲学的な話になるけれど、人が観念する現実って、おそらく物理的・科学的な可能性が前提になっている。実際に現実に見ても降れてもない存在でも、現実的に或ることは肯けるはず。例えば月とか。触れたことはないけど、見たことはあるから、今見えなくても或る。過去に接した人とか出来事もそうだし、自分の現実から地続きで連想できる現実もそう。現実感は薄れていくから、どこまでが現実で、どこからが非現実かって厳密に分けることはできない。思えることも強さだとは思うが。

 

そうして、言葉の不可思議性。言葉は現実だろうかという命題についてどう考えるか。

 

言葉に触れたことはないというは確かでも、人は人を言葉で触れるどころか抱きしめることもできるような気がする。この時の言葉と人の関係は現実なのかな。というところで、「日本語と言霊」という本をちらっと立ち読みして見かけた、言=事だという文化があったというフレーズ。事って出来事、事件、事実、事柄に表されるように、現実的に見えるというか、現実的に影響されるものということだと思う。

 

となると、物理的・科学的な可能的現実という前提自体がおかしいのでという現実に至る。確かに、とか言えるほど確かだとは思えなくなっているけど、現実の定義って、おそらく苦しい外在的な事象みたいなことになっている。誰かより自分が足りないとか、誰かより常に満たされていたいとか。

 

自分が自分であることの苦しさを比較論でなく語れる人って居るのかな。

現実って自分が創作したものでしかないだろうなという暫定的見解。

 

ともあれ。

 

精神現象学ヘーゲルさんも根本は空虚だと言っている。この人語彙の癖が強すぎてまだ全然理解できない。言葉がまどろっこしすぎる。訳文だからなのか。ドイツ語の学習した方が読めるのか、うーむ。哲学者達だいたいこんな感じだけど、自分の言葉に真摯であろうとしていると思うととても好ましい。どれだけ尽くしたって誤解は残らないことはない、残らなかったとすれば、、。

 

生きるということはほんと難しい。まだスピノザマルクスも読んでないから、ざっくりこの人の見解はみたいに書かれると、ブラックボックスになるし。紙面の関係上仕方がないのは分かるけど。

 

能動性と受動性の話だったのだけど、分岐がやたら細かい。疎外された・疎外されない×能動性・受動性の4パターン。全部は分かっていないけど、分かり易かったのが、疎外された能動性。この疎外ってたぶん自分の本質と、ということ。社会的に意味がある行為を能動性としている。これって、刑法上の行為論と一致していてなるほどなと思った。仕事もそう。

 

だけど、疎外されない能動性は何をしていていても自分の本質と繋がっている、ごめんこれは僕の行動態度であって、フロムさんがそう書いたとは断言できず。別に仕事でもプライベートに持ってこれることはあるし、プライベートも仕事に流量できるし、この枠は流動的なのではと思う。

 

能動的に生きている人は接する人に力を与えるらしいけど、どうなんだろうな。どうなんですか。

 

好きな人関連(我ながらほんと好きなんだな)。

 

新刊枠の小説で、写真家が出てきて、写真について考えた。写真って確かに現実的客観的に共有できるもの。結果だけ見る人に対してはそうなる。ただ、写真で感動するのは、構図とか視点とか光量とか、それを撮った人が剥き出しになったところのような。

 

写真は客観だって当人が言っていたものだからそういう文脈で見ていたけど、どうあっても主観でしかないのが写真だとなっている。でも、もう少し進めて、文章よりは主観が客観化されるという意味だったら分かる。人は基本的に世界を自分事でしか観てないから、写真の方が分かり易い。

 

僕としては、どちらにせよ作者の視点を想ってしまう訳だけど。

ぬいぐるみさん達は捨ててしまったのだろうか。

 

 

おそらく、尊敬というか凄いなという敬意がもともとある。

僕に対する扱いでもそうだし。もっと広い人なのではという空想的可能性と、いや一切そんなことはなかったという現実的可能性がどちらもありうる。

 

でも、きっと越えられないハードルを設定したからここまでかなとは思う

 

僕は触れる好きな人をあまり見ていない。

 

触れたら抱きしめるだろうけど、肉体的なその人でもない気がする。

 

こういう文脈でいうと、とっくに抱きしめられている気がする不思議。現実も言葉もないのに。この感覚が共有されているとも思えないのだけど。

 

では。

 

おやすみなさい。

 

良い現実を。