誰がだれ

 

 

 

さらに近くなった満月に惹かれて通常の帰宅ルートから2回遠回りした。立ち読みした月の暦で今宵が満月だと知っていたためちらちら探していると、雲間からすごいのが見えてそちらの方角に向かう。開発された烏の森の中を歩くルート。なんだか石垣島を思い出すというか、宿泊施設の区画みたいだ。生活感が全然ない。建設業者さんが作業している家もある。2回目は完全に丸ごと姿が見えていて、直線距離100メートルくらいずっと眺めていられた。光量の関係か上下に光がのうっすら伸びていて柱に見える。アルテミス。神様の数え方が柱という意味がなんとなく分かった。たぶん無関係だろうけど。

 

昼休憩に公園に行ったら、人が全然居ない。こんなに寒いと外では食べられないのだろうな、分かり易い習性。僕も職場の休憩時間が集中していないシフトだったら休憩室で食べただろうけど、人が密集した休憩室より、震えながらでも1人で食べる方を選択した。食べ終わった後は、美容液を探しに東急ハンズへ。オールインワンは嫌だと思っていたけど、他に良さげなものが見つからず、デザインもなんとなく好きな感じだったからそれにした。ついでに眉毛を整えるセットと、弁当箱を入れる袋を購入。眉毛は、職場のトイレに行ったときに自分がきちんと擬態できているかを確認するとまず見える部分だから、あまりぼさぼさになって注意が向かわないようにしとこうかと思っただけ。別に自分が肉眼で確認できる部分ではないし。

 

注意って、意識を注ぐっていう語源だと思うのだけど、注意されるとか注意したとかって教育とか秩序維持の文脈で悪い意味の言葉なのは何故だろう。人の意識のリソースは有限だからそんなことで行使させるなっていうことか? でも本来の意味でも使うか。床が濡れているので注意して下さいみたいな。「僕は好きな人に注意している」という文は前者の意味では誤用だけど、後者の意味では合っているような気がする。ただ、こういう文脈の文みたことないな。対象がものであって、何か害がある可能性があることが前提なのか。僕は(岩が落ちてくる可能性から)剥き出しの岩壁に注意して歩いた。みたいな。危険ではないものには意識を向けなくも良いという観念は脈々と続いた歴史の学習なのかもしれない。いや、あえて向けなくても勝手に向いているから言葉は要らないのかも。かも。

 

「脳は私ではない」で、立場のない立場という概念が出てきた。要は完全な客観。こんなものは目指すものではあっても完璧にその視点になることはできないとのこと。意識があるということは立場を持っているということ。とてもわかりみ。完璧は目指すものであってそうなることはないというのは、僕の座右の銘の1つ。

 

ところで、昨日好きな人の日記の方の文体が窮屈そうだと評してしまった。起き抜けからずっと考えていて、朝から昼辺りの思考の見解だと、いや、そもそも生活とはある程度の窮屈さが不可避だし、その窮屈さを読み取っただけで、非オーガニックを求めているとはならないだろうと悶々する。悶々の中には、そう読み取れるということは僕が無意識的に好きな人の生活がそうあって欲しいと願望しているのではないかという解釈まできて、うわ、自分やな奴だわと勝手にやや下降するという。潜在意識とかトラウマみたいなものは傾向として分かり易いけど、無意識までいくと自分でもそこまで把握できないし。

 

夕方くらいまでくると風向きが変わってきて、いや待てよとなる。そもそも言葉は窮屈なものだったなと。言葉にならないものを無理やり言葉に押し込めるという窮屈さ。たしか当人の立場もそういうものだったようなと思い至り、こっちの方が正しさに近そう。僕はめっきり言葉に窮屈性を感じてないからちょっとずれていた。言葉は自分の可視化であって、表現とはちと違う。

 

日常で使われる言葉も仕事場でモニタリングしていると、それほど当人と近いものではないだろうなと思う。もちろん仕事場という皆仮面を被っている場だけど、素朴な人格と全く離れて仕事で発話を扱えることなんてなかろうし。発話のスキルを学習すればするほど、人と言葉は一致してないなと思う。あ、そういえば、生活の窮屈さのときに、心と体は同期しているけど完全な一致はないというフレーズを入れるつもりだったのに忘れていた。

 

こういう視点で、ねっとり話す後輩さんを考えたとき、本当はそんな話し方をしたくないのかもしれないと思う。そう話さざるを得ない何か時系列上の原因があったのかもしれないし、特に雑談が好きな感じでもなさそう。ただ、何か媚びたり甘えたりする部分が見える。先生は、時々この性質にイライラしているように見える。これだけ装えるならじもうちょっと良い人生あったのでないかなと思わなくもない。礼儀正しいし、発話もちゃんと笑声なのに。でも、こういう所作がほんとに相手のことを想っているのかどうかって人は無意識レーダーで把握するのかもしれないな。僕の観測だとこの礼儀正しさは自分を守るためだけに遣われている。

 

同期はかなり抜けていて、抜けていてもまぁええかと安心してしまう感じ。おそらく僕が同期でなければ正式採用されなかっただろうなと勝手に思っているのだけど、なんだか割と怠ける人なのだろうなという感じ。私生活が充実していれば良いなと勝手に思うけど、どうなんだろうな。同じ島出身という意味ではちょっと気になるところ。

 

もちろん、僕はこの人達と個人的に関係したことも腰を据えて話したこともない。でも、他人に対してできることは、何処まで行っても想像することしかない。これはおそらくどれだけ近くなっても変わらない。ここの齟齬があったから個人的関係でうまくいかなかったのだろうな。

 

僕の経験則上、僕のことを分かっていると言ってくる人が多かった。断定的に判断する人達。なので、僕は人一般に対してとても恐怖心がある。人の怖さは、何か物理的に害を与えられるということではなく、身動きができなくなること。ほんとはそんなことはないのだろうけど、なかなか離れられない。

 

延長戦。

満月は空高くて見ながら歩くには首が疲れすぎる。

 

好きな人のことも怖い。好きだしかわえぇなと逐一感じるけど、それとは別にほんとに許容されているのが分からない。いっそ観測圏内から離れてしまえば周回軌道上から単なるファンで良いのに、怖いのにやめない理由はなんだろうな。日記にヤバイ奴が粘着しているっていつ書かれても仕方がない。

 

好きだから怖いとは違くて、好きな対象と現実的な基準は違うだろうからそのうち離れるだろうなという標準があり。たぶん受動的な基準としては読み物がある限り読まずに居られないという本能なのかなと、説明付ける。

 

全然こころ的に離れてくれない。なんなんだ。

 

僕が観測圏内から離れたらあえて追ってくれることはないだろうけど、僕が残した文章はいっぱい読み返してくれそうな気がする。末期の時にメッセージを投げたいので、LINE教えてもらって良いですか、それ以外では使いません←

 

こんな感じで、他人に対しては人がどうであるかは想像しかできないけど、自分に対しては、自分がどうであるかはある程度探れる。これが自分である特権だろうな。自分のことも完璧に分かることはできないけど、発掘も観測も他人に対してより遥かに深くできる。

 

シンプルに生きたいなぁ。

 

僕が好きな人を好きになったのは、勝手なことだけど、継続できているのは勝手ではない。

 

 

ともあれ。

 

本の話。

 

アンナカレーニナはどうしてもコメディ感がある。コメディとはなんぞやは知らないけどどうしても。何がそう思わせるのかはともかく、存在論のやり取りがあって、今でないと読めなかっただろうな。たぶん、当時読んでいる人にとってもちんぷんかんぷんだったはず。

 

アランポーさんもプルーストさんも、思考の記述化が写真みたいでほんとアレだ。

 

好きな人の制作日誌にも窮屈さは感じない。

 

この感じが僕だとして、感じで立場を取る必要があるのか。

 

 

おしまい。