ただの〇(名前)

 

 

 

服の中と皮膚の中、どちらを望むのか。

 

 

こんなフレーズと共に目覚めた。服の中(皮膚)は一定の関係があれば晒し晒され、体温の移動や摩擦もできうる。なんなら味も。これはこれで大事。物的で素朴な欲求。僕も然り。ただ、さらに皮膚の下。もちろん、生皮を剥いで解剖してという話ではない。それで分かるのは人体の構造であって解剖学や医学に任せること。

 

その人の皮膚というか肌感覚の外皮の下に存在する世界は、関係があったとて認識されうるとは限らない。当人にもそれほど把握されていない世界かもしれない。なにせ、見えないし触れないし、間接的にしか把握されない。伝聞形式でも、その人が本当にそこに生きている(その人の表現に誤りがない)と信じた上でのこと。嘘を言う意味もなさそうな領域だが、脚色はあるかもしれない。そういう風にしか書けないという向きもあるかも。

 

ここにおいて、人はどんな学問より難解だと想う。定義もないし観測する道具も確立されていないし。なにより、移ろうし。移ろわないのは自然に抗う意志。

 

 

 

さておき。

 

本日は引きこもり。休みの日は移ろいを意識するのが難しい。注意が絞られていないからだろうな。あと二日、出かけずに素朴な時間の認識の仕方を探求するのも良いかもと思ってくる。することをしているのか、したいことをしているのか、惰性なのか。時間が多いと思い込むと使い方が粗くなるのは仕方がないが、精査していきたいところ。別にここにはやるべきことはないから、自分に行動を押し付けている訳ではない。

 

楽に流れて楽しいか、と尋ねてみるだけ。

 

こういう内省作業は自分でないものを自分としている部分はないかという点検のようなもので、特に意味はない。本日は自分がどのようにして文字を読んでいるのかが一瞬分からなくなった。文字を読めるということは、視覚から入った文字情報として脳内に意味として変換する無意識の所作があり、その無意識を意識しようとすると、歩くことを意識した途端歩き方がちぐはぐになるのと同じように、文字が上滑りする。

 

僕の中で引用として出てくることが多い森博嗣さん。文章を読んで頭の中で意味を展開することができる能力が低下している(ない?)人が多いということだが、ほんまだろうか。文章はワーキングメモリの中で意味を読みとれたらおしまいで流していく情報ということになっているとすると、とてもありうる話。僕もそういう風に読んでしまう悪癖が残っているから排していきたい。自分の頭の中に余韻が残って味わえる、なんなら取り出せるのが僕の読み方。

 

そういえば、高感度な性質な人(こう書くとなんかアレだな)。診断されるものなのかどうかはよく知らないから、自称だと似非になるのかもしれない。まぁまがい物でも問題なく。僕の解釈だと、無意識が処理している情報の中で、一般の人の中では自然に認識から排除されている情報を意識が拾ってしまって、脳ではなく精神が容量不足になって過度に疲れたり、影響を受けたりするのだろうなとなっている。脳に大差はないはずだから、個体差があるのは精神の方。

 

僕としては、感じてしまうのであれば意識できるところまで全部可視化してしまえば良い、むしろ自分も世界もいっぱい読めるわとなって、この性質を逆用している。他の人はどうか知らないから一般化できないが、たぶん、粒子(空気)のパターンの違いに敏感なのだと思う。相手がいつもと違うことが感じられるのはおそらくそういうこと。一回も覗いたことがない恋人さんの携帯をふと見たら浮気相手とのプリクラがあったとか(経験談)。

 

そこまで皆が皆自分のパターンに過敏に生きている訳ではないから、現実的に意味がある情報はあんまりないと思う。あまり有用な性質ではない。この人が席を立つのはこれくらいだとか、それにはこういう意図があるのだろうなとか、無駄に世界を観測する。それほど意識的に生きている人なぞほとんど居ない。

 

ただ、有用かどうかから離れて、世界を観測する感度にすると、なかなか面白いことになってくる。本を読んで影響されるというのも1つだが、自分の感情として感じなくても良い。登場の人物の感情として直接影響を受けるようにすれば芯までは響かない。

 

以前はもやもやしてくると、つぶやき場で不毛な論争をしている界隈を眺めて暗さを共有していたが、どうでも良くなった。動かない人はずっと動かないだけ。あと、にちゃんねるのホラー系、都市伝説系、未来人系を読み漁るとか。

 

noteは動的な文章が多い、いやそうでもないのか。

 

この無駄情報への感度を内向きにすると、自分の情報が自分で認識していた自分としての枠からはみ出していることに気付く。

 

感度が高い人もそうでない人も、どうして自分が静的存在として固定されていると認識できているのだろうという想念がとても気になっている。いや、自己は自明だっていうのは証明不可能だし、それはそれで良いのだが、自分に対してほんまかって問うてみたことはないのかな。あってもそうだということであれば余計なお世話だが。

 

僕は主義とか思想で自分を決めていない。もし明日宇宙人が地球に侵攻してきたら細々とした主義はどうでも良くなって地球人皆仲間として団結するだろうし、という程度なのではという疑いもあるし、何より、それが決まったところで行動は決まらないという次第。

 

自分を決めているものがあるとすれば、美学からもってくる。美の感覚器として舌を当てたのって真理を突いている。世界を味わっていることが自己の証左で良い。味が増えたり細かくなったりするのが人生。

 

あんまり抽象的になってもいけないので、本から持ってくる。「社会人類学」では、「人格」は社会を統合するための発明品のように書かれている。これ言ったら心理学上のセルフとしての自己とかエゴとしての自我も、人間が個人であるための仮説としての概念でしかない。依拠してもしなくてもいいことというだけで、信じたければ信仰するのは自由。

 

今の日本の憲法でも個人の尊重における「個人」は自分のことを自分で決められる「人格」みたいに設定されているが、ほんとにそんな生の人が存在するのであれば、世界はもっと平和になっている。

 

結局抽象的な感じになるが、こういう外から持ってきた自分観では自分のことも人のことも分からないという素朴というだけ。ここにはスピリチュアルも当てられない。僕で探すしかない。

 

僕探しで見つかった1つ。これも「社会人類学」なのだが、挨拶の意味。挨拶はある社会において「貴方は仲間です」というメッセージがあるらしい。でも、個人的にはもはや人に対して仲間感ってないから、異星人間の交流というか、「貴方のことを認識していますよ」という意味であって、自分に返ってくる褒賞はない。送ること自体、当人が居ないとできないという意味での褒賞。

 

挨拶の交換=互酬性の観念はなんだか拙いように思う。

中学生くらいの頃にやっていたガラケーワン切り交換みたいな。年賀状もそうか。お手紙を本当に送りたいなら、なんでもないときに送るだろうし。

 

繋がっているのはそこじゃないでしょうよって、ずっと想っていたというのを発見。

 

自分の感覚を信仰している訳ではなく、間違っていたら更新することを前提とした上で自在になっているだけ。

 

引きこもった一日でも文章量変わらない不思議。

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

みんな幸せでありますように。

 

良い夢を。