お化けの女の子に顔を踏まれてそいつを追い出すという若干不愉快な夢を見た。朝方の半覚醒状態で、何してる? と1人で考えていたら、「何もしてない」と声が返ってきて、問答を繰り返しているうちに「踏んでる」との声と共にむにっとされた。お化けだから怖いのは怖いだけど、それよりも不愉快さが勝り追い返した。

 

覚醒してなんだこの病んだ夢はと思う。そんな性癖の自覚はないし不愉快だったけどなぁと考えたところ、そういえば昨日の新刊枠の最後の話が、中学校に生息している女の子の浮遊霊と地縛霊の話だった。足が出てきたのも、浮遊霊である主人公の女の子が生きている女の子を階段から突き落とした時に、足が階段と一体化したシーンがあったからのはず。それにしてもこの人の深層イメージの想起力凄いな。夢に出てくるとは。

 

そうして。仕事は普通だけど中身は若干あわあわしていた。自分をそんなことさせることわざわざ書かなくても良いのに、どういうドMなのか。物語なんかより感想文のほうがいくらか良いだろうよ。僕の文体が好きなのではなく、僕が肯定的であるから存在を受け入れられていると考えるのが妥当。とかいいつつ、おそらくちゃんと個人宛であればきっと誰が書こうが大事にするのだろうなという感じも強い。誰からというより誰に向けてというところが中核。それでも無駄に暖かさを感じてしまう。言動も振る舞いもほとんど情報がない状態での感覚はもはや霊感に近い。霊感に付き合ってもらっている感じもよろしくない。

 

いちいち反応なのかもとか、いや、ないない。

 

さておき。

 

もう1回新刊枠で作者買いを続けたのだけど、やはりこの人面白い。文体の類似性というか、ちょっと世界観が馴染む。現実離れした恋愛短編集との触れ込みの、第一章は「くちなし」。なんだか他の話も想い出すタイトル。

 

人の体が取り外せる世界で、主人公の女性が10年続いた不倫相手との手切れとして、相手の腕を貰って腕と生活するという話。栄養摂取をすれば相手の体についていた時と同じように動く。個人的な話なのだけど、添い寝をしている時にこの腕が欲しいと言われたことを思い出す。割と真面目なトーンで。この世界観だったら腕の1本くらい上げてもよかったな。不便ではあるけどそれだけのもらは貰ったと思っている。僕自身はあげられなかったけど、腕なら良いかなというくらいには。

 

どんな恋愛経験を経てきたのかとは聞かないようにしましょう。そういえば、最後の友人に似たつぶやき場の人の恋愛指南の文章に、自分の話に目をキラキラさせて聞いてくれる女の子というフレーズがあるらしい(伝聞)。そういう経験がない人がほとんどだろうなという評価だったけど、こうやって聞いてくれる人って、全然僕の話聞いてないよなって思った経験則。いや、そんなこともないのだろうけど、それで満足感を得ようとした僕が馬鹿だったわ。キラキラさせてくれなくてもちゃんと消化してくれる方が絶対良い。発話の世界に置いて僕は自分のことを話したことあんまりないような気がするが、価値を置いていないからしれっと話すこともあったのだろうな。

 

覚えていないけど、どれだけ酔っていても言えないことは言わない。ほんとここのセーブわれながら凄いと思う。セーブできなくても居る人も凄いけど。

 

小説の続きだけど、不倫相手だった男の人の奥さんが、夫の腕を返せと押しかけてくる。結婚式の、「健やかなるときも病めるときも・・・」のフレーズを持ち出して、夫の体の所有権は自分にあると宣う。だったら、貴方の腕を下さいと返して、奥さんの腕との共同生活が始まる。

 

で、奥さんの腕と仲良く過ごしているうち、持ち主に再会する。持ち主の右腕より自分と過ごしている左腕の方が綺麗だっていう表現で、左腕は「愛されることしかしてない」から当然だというフレーズはゾクッとくる。で、旦那さんの浮気癖がなくなったとやつれた顔で奥さんが言う。旦那さんの体を分解していていって、根っこにある汚いものを取り去って、くちなしの芽を植えたんだって。

 

最後は愛という言葉なんてなかったら良かったのに、で終わる。

 

読後に、おそらくくちなしの花ことばも関係あるだろうなという霊感が働き、調べてみる。「幸福」とか、やはりえぐかった。くちなしの白い花びらが可愛らしいのもえぐさを際立たせる。

 

やはり言葉をじぶんそのものとするのは言霊に流されるのだろうな。愛という言葉の崇高さに囚われてしまう。言葉はあくまで遣うとか響かせるくらいであって、その言葉で自分が表明されているものではない。

 

そういえば、これとの繋がりというかなんというかで、好きな人の「体」についての論考記事を読んだこと。知識が足りなくて読みきれない切なさ。何を言っているかというよりどこからの引用かという原典が分からなくて、やはり凄い蓄積がある人なのだろうなとしか分からない。

 

学科も専攻も全く違うから当たり前のことなのだけど、ゾンビってどういう意味のゾンビだとか、身体改造ならなんとなく、とか全然読み解けなくてもどかしい。ヴィトゲンシュタインの記号の本も読めてないし。

 

ナチュラルな尊敬というのは、研いできたものか考えて施行してきたものに向くから、尊敬をくれと言われてもそう感じなければあげられない。母親への尊敬は大黒柱もしつつ、母親にもなりつつしようとしてくれたところ。フロムさんの言だけど、父の愛は条件付きで、母親の愛は無条件だから、どっちもやろうとするのは1人の人格ではキャパオーバーに違いない。

 

この研いできた尊敬と、なんだか可愛らしい部分が両立しているから好きな人が好きである。施行に向かっていないアンバランスよ。

 

ちゃんと自分をやってない人には食指が向かわなくなってきた。

それぞれ確かに情報ではあるし人だから、人として尊重することはできるし、風景としても観るのだけど、中心で関係しようとするところまではいかない。

 

ちゃんと自分をやるというのは、自分のことを他責にしないし、他人のことを馬鹿にすることを栄養源にしないことかな、もっと要素はありそうだけど。

 

独りだと欠けていることが自覚されるって今読んでいるどの本か忘れたけど、僕は一人で居なかったときの方が欠けていることが明確だった。帰ってきた後が大変。

 

 

では。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。