暇人

 

 

 

明日明後日とまた有給消化休み。帰り際にどれだけ休むのだって上司に言われたけど、いや、あなたが休み入れてくれたのだけどと。まぁ冗談だとは知っていたが。

 

なんだかアクセス数が増えると嬉しいと言うより、自分が何か変なことを書いたのではなかろうかと思ってしまう。いや、いつも変なこと書いているやん、とセルフツッコミ。

 

ウォーミングアップ。

 

夢は、左手をあげても良かった人と添い遂げた世界線。官憲に追われて廃墟になった母屋で過ごすというなんとも破滅的なイメージ。どれだけ印象悪いのか。まぁ、うん、そうか。ついでに、大昔住んでいた頃の生活も思い出す。

 

タイル張りのお風呂はともともと薪炊きだっだ。母屋にしかお風呂がないから、渡り階段を通るか外から歩くかして毎日必ず行かないといけない。外は真っ暗で怖いのだけど渡り階段も降りた先が母屋のトイレの洗面所で薄暗く、毎回走って通り抜けていた。ひんやりとした恐怖感の再現。幼少期はからくり屋敷みたいで結構好きだったし、中学生の頃は家ではなく、母屋の座敷で寝ることが多かったような。

 

今想うと割といびつな感じもする。って、なんだかデジャブ。どこかで書いたことがある気がする。まぁ良いか。この孤立感がというか、広い家対自分の僕の根っこにあるような感じ。生生しく思い出されるのは独りぼっちのシーンばかり。実際は家族が居たとは思うのだけど、なんだかこの時点で1人に馴れてしまったのかもしれないなと思った。1人でカーテンのスキマから雨を観るシーンの孤独感とか一生残るだろうな。庭の土に水たまりができて波紋の変化をひらすら眺めていた。蟻の行列も眺めていたのもちょっと近いな。

 

さておき。

 

通勤中考えていたのは、今の自分ってそうとう「暇」だよなということ。持て余しているということではなく良い意味だけど、別に有意義に使っているということでもない。

 

平日で考えて24時間のうち睡眠に使う時間が8時間、仕事の拘束時間が通勤、休憩含めて10時間として、諸々の雑務で1時間を引いて、可処分時間が5時間。そのほとんどを読書とこの日記時間が埋めている。日記を書いた日=一人で過ごしている夜なのだけど、それも特に問題はない。寂しさを埋めるための人間関係は要らぬ。

 

で、この「暇」という概念だけど、僕の中では何に使っても良い時間があるということなのだろうなと思う。

 

ふと思い出すのが、高校時代に、ガラパゴス携帯でせっせとメールで文通していた女の子のこと。中学が同じで高校は離れたのだけど、ちくちくボタン押しながら毎日メールしていたなと。僕は見ての通り筆まめなので。

 

特に恋愛感情はなかったと思う。メールを送りやすい女の子という印象。のちのちこの人の中学時代からの恋愛感情を暴露されて、云々というのは別の話。で、僕が送ったフレーズに「体は忙しくても心は暇人」という語録があったことを思い出した。ほんと根が変わらねぇ。

 

どういう文脈だったかは定かではないけど、おそらくその女の子が高校で下宿になって忙しいみたいな現に対するものだったような。励ましなのかなんなのか。

 

当時と今の暇さを比べると、遥かに僕は暇になっている。可処分時間は高校生の方が遥かに多いけど、テレビの話題についていくために、アニメなら30分は拘束されるし、返したくもないメールにも返信しなきゃならないし、(現代でいえばLINEか、当時グループラインとかなくて良かった)、勉強は正味そんなにしていなかったけど、外から詰め詰めだったよなと。

 

でも、この詰め詰めが生活であり関係だという観念があることも当然分かる。僕も当時はそれが当たり前だと思っていたから、ほんとに自分のしたいことなのかさせられていることなぞ区別する必要がなかった。でも、こうやって意志は関係ないという社会的拘束をしているのに、肝心なときにはしれっと意志を聞いてくるってなかなかサディズム的世界。

 

と、初めに感じたのが高校での文理選択。これってどっちかしかない人はおそらく問答無用で振り分けられるかどうかは知らないけど、僕は先生からどっちでも良いと言われて、どっちでも良いってなんぞと思った。満遍なく良いとかではなく、英語は良くないけど国語と数学がどっちも同じくらいというだけ。

 

英語の楽しさはいまだに分からない。ただ、マクベスの翻訳読んでいるとちらほら出てくる原文の音韻が面白そうだから、読めるようにしたいという衝動はある。原典にあたりたいという熱で多言語を読めるようになる可能性、あるかもしれない。

 

 

ともあれ、たぶん現代社会で自分が暇だと自覚している人はあまり居ないと思う。好きな人に定期的にメッセージを送る理由が暇だからですって言ったらなんとなく印象は悪そうだ。

 

でも、他に使っても良い時間の中であえて意志で選んでいることだとすればどうだろう。経済学視点で言えば、一番効用があるものを選んでいるということにもなりそうだけど、これとも違う。関係的時間の遣い方と経済学的行動選択はとても似ている。効用=何かが返ってくることに対する期待。

 

僕はただ送りたいから送っているだけ。そうして、好きな人も返す必要がなくても読んで良いという認識があるようだから、とても暇だと思う。だから良き。暇人同士の繋がり。こういう視点で見ると、とても可愛らしい。(霊感)

 

他人に対して暇だという評価はネガティブっぽいけど、これっておそらく自分は拘束時間に囚われているのに相手が自由っぽいっていうすっぱいブドウみたいなことでしかない。

 

結論。生活の中に暇を作ろう。暇であればどれだけ費やしてもそれがなくてむずむずすることはない。僕の日記を読むのは暇人の所業。

 

そうそう。

 

暇に任せてそろそろ自然を補給したいなと思ったらちょうど紅葉が見頃らしい。平日だから観光地でも大丈夫かとは思うけど、人が多いとそっちが気になるから綺麗に整えられたところより、生活している人しか乗り降りしない駅でふらっと降りて、その人達しか知らない穴場的なところで良い。実家の裏山のてっぺんの岩から見える景色が好き。標高は忘れた。

 

また、空想的デートのお誘いしてみるか。

 

 

本の話で腕の話の次。

 

恋心が芽生える時、相手の体から花が咲いているように見えるというロマンチックな話と思わせて、それは人間の体に寄生している虫が虫同士で求愛行動をしているという世界。で、人が死ぬときも自発的土葬で、この虫の養分になっているとか。寿命ではなくて、当人がもう終わりますって言うと葬儀がある。

 

で、この外在的な虫に支配されているのが気に食わないという層と、それでもこの感情は本当だという層があって云々がある。

 

でもこれって、そんなに現実から離れていないと思う。

 

好悪の感情が論理的・理性的なものではないのは、意識の外にある遺伝子とか無意識に支配されている。匂いとか味とか特にそう。あと、人の感情の起伏が腸内細菌と相関しているという研究の記事も見たし、あんまり変わらないような。

 

自分が自分で在るという恒常性について考えてみても、時系列で変わっていることは肯定しながら自分が一定であるっておかしくないか。順序としては時系列で変わっていくものはあっても変わらない部分があるという恒常性では。そこまでの恒常性を自分の中に持っている人があまり観測できない。いや、それを見せてしまったら完全に弱みを握られることだから見せられないという善解。

 

では、この辺で。

 

おやすみなさい。