凄く寝た1日。洗濯機を回したは良いが干さなかったため明日もう一回転させないといけない。なんとも怠惰でらしい日。昨日の日記を読み返すと途中までは良かったのに最後らへんが破綻してしまった。酔っぱらっても正常な文章を書くというのは一体何の修行なのか。
「いつか」「どこか」ってパラレルワールドのことだろうよ。読み返して恥ずかしいという感情が生まれた。この感情の解析をしてみると、越権をしたときなのだろうな。要は場違いであること。
並行世界とか世界線といったものは素朴な自分としてはとても分かる。世界は自分の動きによってたやすくゆらぐというものさし。そういえば、文章も世界に対するものさしだと書いていたのが村上さん。なんとなく分かってきた。
人間は当然過去に戻って世界をやり直すことはできないけど、今以降の変化は無限に近い。バタフライエフェクト(蝶の羽ばたきの空気の動きが竜巻を起こす)然り、自分の動きで世界線はまぁまぁ移動できる。とはいえ、人も同じように世界線を移動しているのだから、僕の世界線の中だけで捉えるのは失礼極まりない。僕が言っている能動性はこのこと。
こういうたまたまの一致が面白いなという世界線で生きているから、やはり当人の物理的ものさしは無関係なのかもしれない。僕を捕らえておくのであれば少しは自発性があって欲しいところだけども。
そういえば、忘れ去られた日記を読むのは面白い。「おやすみなさい」の読者だった人をぽちぽち読んでみるという、まごうことなき変態的試み。更新が3年前くらいで終わっていて、この人今は大丈夫なのだろうかと思ったのが女医さんの日記。文字情報がなくなる方が現実世界では充足しているというのは当たり前の話だから、うまく現実と馴染めたのだろうなと思っている。こういう見方は某笑顔動画にも通じる。まだ観たかったのと思っても、その人が提供するという前提での世界だから、受け入れるしかない。交信もできないし。
おそらく現代社会では現実世界と文字世界は乖離していると思われる。現実で話せない言葉を綴るのが匿名的で在られるところにしかないとかそういうの。もちろんそういう感覚は分かる。ただ、僕は現実世界において話せないことを書いていない。別に話しても話さなくても良い。自分の開示が親密性と全く直結しないことに起因する。おそらく僕の自我が生まれたときから変わっていないとなるとちょっとぞっとしなくもない。自分が人生を通して何も変わっていないのだから。
この視点で人を見たとき、人は別に他人のことを自分と同じ水準で知ろうとする衝動はないのだろうなという感じ。素朴に自分を観たとき、現実的所作と仮想的言葉は当然連結している。この自分の連結をスルーして他人だけそう捉えるって、ほんとうに関係なのかいな。という疑問。
結論に至る前に、僕の学習作用の話。法律学はまさに世界が決める基準のこと。日記に落とし込めるところまで語彙化しないといけないのだけど、なかなか難しいのは、現実世界とめちゃくちゃ離れている。人を個人と見ていない。量的に処理するシステムだからしょうがない。ただ、この量的に人を処理する外用のものさしが社会への参加資格なような気もしていて。
あくまで現実生活の話。
僕の現実感がずれているのは周知だけど、僕の文章を読んでいる人に対する評価もきっとずれていたというのが結論。
僕は文字情報だけの関わりはバーチャルでしかないと捉える。この仮想の中には現実的なその人が含まれているということを度外視するのが仮想世界の前提なのかもしれないけど、太宰さんと飲みたいと思う僕には通用しない。
好きな人も春さんも僕をこういう意味で仮想的な読み物としかみてないのだろうなというのが一応の結論。そのために日記で関わる意味よ。
たしかに自分からすれば世界だいたい読み物でしかない。ヒトはあってもなくても良いもの。これで人は必要なものだって反論が来たら、その人はファンタジーで生きているという証明になる。
両者一瞬だけ自発的だったから残っているけど、情報の更新がない以上、単なる読み物として僕を消費しているだけで僕を観ようとするしょうどうはなかろうな。初めに発想すべきことだった。
何にも与えてくれない人に自分を与える意味があるのかという話。
人にとって人はあってもなくても良いものであって、あって欲しいと思ってくれた言語化をしてくれたのが好きな人であったけど、この人も僕を維持するために言語を使う気はないらしい。
もっと相互で関係できる人を選ぶべきではある。偏見だけど、女性は基本的に与えられることに馴れてしまっている。
でも感情はしょうがないからまぁまぁ祈る。
この日記時間は、何処にでも宛てられる暇でしかないけど、これで何も動かななら意味はない。
今日は3リットル飲んでもまともだったのでは(願望)
要は、単なる読み物とするだけであれば、僕のことなんも読んでいないなということであり、そういう人のために僕を文章化する意義はない。
では、良い夢を。