自己はどこ

 

 

大事なのはおっかなびっくりの不安ではなく覚悟と楽観。

 

 

竜が出てくる夢と、引っ越しする夢を見た。

 

竜はなんとも神龍感があった。特にお告げとかはない。雷状のビームには打たれたが(痛くはない)。白銀と、深緑の2頭(?)、水辺からぐぉーと顕われた。鱗の質感凄かったな。ドラゴンボールGTで超神龍を見たのと昨日の日記の相乗効果だろうな。水辺に行くと何か居そうな気がする。これは感じではなく想像だが。

 

引っ越しは、もちろん1人。今の部屋より良いところ、ではなく、現実離れしていた。鍵とかかかるべくもない開けっ放しの空間で、寝るところには屋根は付いているものの、何故か野ざらし二度寝する時寒かったからと思われる)。人自体は何人か登場した。まったく現実で会った人の面影もない知らない人達と食卓を囲んでいて、テーブルに突っ伏して寝落ちしていたらしい。起きて何処かに出かけるつもりな僕は早々に囲いから離れようとするのだが、食ってくれないと俺が食べることになる、と対面の男性に言われて何故か焼肉を食べさせられる。

 

もう一回引っ越した後も野ざらしの寝所で、なおかつ線路のすぐ側だった。

 

なかなか楽しい二本立てだが、我ながらどんな世界観だよ。

 

さておき。

 

フラニーとズーイ」を読了。起承転結とは無縁の物語。最後のシーンで我知らず涙腺が緩む気配がした。皆が「太ったおばさん」でキリストであるという要約すると意味が分からないのだが、きっと読まないと味わえない空気感。

 

この枠の次は文学フリマで購入した青空文庫にも収録されていない泉鏡花の復刻本にする。

 

 

記事を眺めていたら、「時間がないから本を読まないのではなくて、本を読まないから時間がないだ」という、某有名な経営者の格言を見つけた。たしかになぁと思ったが、その理由が、「他人の経験に学ばないから」とのことで、読んだ瞬間は、はて、となった。いま解釈すると、時間を使って(他人の)時間を収集するのだから、時間は減らないというニュアンスなのかな。1つの経験値。

 

僕としては、本を読むことは現実の時間とパラレルな時間を過ごすことで、あるとかないとかはないのだが、副作用として現実の時間が延びるという効果があるという意味で、もっと直接的な時間の貯蓄のこと。本を役に立つこととして読むのであれば、さっきの格言のことになるが、ただそこに過ごすことで、自分の精神世界が拡がる。

 

そういえば、昨日の精神世界の座標の移動の続き。

個人的にここには、「自己肯定感」とか「安心感」が影響してくると思っている。ひいては単純な記憶力とか発想力、思考力にも連動する。

 

突拍子もない話とは思わない。

 

そもそもここにおける「自己」とは何か。たぶん自我、自分であると意識される自分であって、積み上がった、もしくは輪が重ねられた自分という、仮想的な歴史が含まれている。いや、経験を経たことで自分ができ上がっているという反論がありえそうだが、自己は経験だけでできてないよねって返したい。自分が考えて自分とした部分はどうした。

 

で、ここに肯定を持ってくると、いまではなく、「いままでの自己」を承認することになって、これからの変化に向かわない。これからに向かわないということは、いままでの自己がどれだけ苦しくて使い勝手が悪いものだとしても継続することになる。

 

自分を肯定してくれる人を求めるのもこの方向だと呪詛ぽくなる。

 

こうやって外から書けるのは、僕がもともとこういう意味の自己を持ち合わせておらず、いや、きちんと「自己」は守らなきゃならないと周りに言われてやってみて、滅茶苦茶しんどかったから。守るべき自己は既に通り過ぎてないか。

 

自然に人を見ればこれからに向かって変化しないことは在りえないし、あえていままでの自己に立ち止まる意味ってどれくらいあるのだろうという自我観。

 

僕が捉える自己は存在であって、ものさしとかアイデンティティのことではなく、なんというか、肯定するまでもない。いままでの考え方がひっくり返るようなことがあったとしても、僕は僕だろうなというだけのこと。

 

個人的に人生を管と捉える観念に好感を持っている。管自体を自分とすれば、変化しないところに重きがあるが、管に何が通ったかに重きをおけば、観測できること自体が自己になる。

 

留まる自己が自分であるという世界観は自分が自然にゆるゆる変化しているところに義務を課すことであって、思考とか発想を阻害する。自壊するようなこれらを許さないという枷。記憶だってその世界観を壊してはいけない。

 

読書は自壊の行為だから固定されているとしんどい。

ならばタスクにするしかないが、タスクしたところでたぶんあんまり意味がない。

 

趣味を聞かれたら、生きることですと言いたいのだが、この発言だけで異分子認定されるから現実ではしない。

 

生きることは、動くこと。考えること。生きている気になることではない。

うしおととら」の物語の冒頭の台詞、本質を突いていた。

 

僕が何をもって人を見ているかとか人と接しているかもよく分からない。

まぁ、動きは分からなくてもされている。

 

カントさんとか哲学者達が解明した人の中身の機能として、「認識能力、快不快、欲求能力」の三類型があるらしい。

 

どれが大事だろうな。

 

というより、どれももともと在るものではなく、磨いたり掘ったりするものであって、何もしなくても自然になるようなものではないような。アプリオリ(経験する前に持ち合わせている)の機能だとしても、その機能のもともとには普通に過ごしているだけでは辿りつけない。

 

まぁたどり着いたところで何か獲得できるのかとなると、獲得の概念が必要とされなくなるというのはありうる。

 

こういう意味で、僕は1人で良いやと思っているし、もっと1人になりたいところではあるのだが、何か1人にしてくれない感じの人が居て、嬉し困り。

 

勘違いであることの方が自然。

 

居ても居なくても寂しくないのに、居たら嬉しいだろうなという存在は稀有過ぎる。

 

 

最後にどうでも良い話。

 

我ながら読解力がなくてなんともなぁと思う。カントさんのいう「認識能力」。

やっとこさ、歌詞の意味みたいなところはふと読み取れることが起きてきたが、純粋な詩の質感は全然分からない。感じるものだとしても、文字情報は書かれるべくして書かれたものだろうし、という意味で、意味が繋がらないから読めないなのだろうな。

 

 

あぁ、僕の文章は別に書かれるべくして書かれたものではなく、たまたま書きとめられた塊でしかないので、読み取るものでもない。

 

 

はい、では。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。