自在的宇宙

 

 

もはや日課となったお弁当画像を撮影しながら、「なんでもしていいとしたら」が完全に無制限・無制約になったら何をするかについて思考実験をしていたお昼休み。

 

ぱっと思い付いたのが、「全人類ひとりにつき1つ宇宙を配る」だった。その中でこんこんと眠るもよし、人気者・支配者になるもよし。1から作り直してもよし。僕は離れるほどこの宇宙に絶望もないし、そもそもまだまだ知らないから、このままでええなとなった。

 

 

自分の頭の中を解説するというも変な感じだが、無制約である以上既存の価値の中で富を得たり成功したりする意味はない。そうして、僕は何かがしたいこととそうした結果であることは全然連動させていないから、自分にとって良い結果を想定できない。不老不死も退屈するだろうし、億万長者も最低限使ってフラットになった後はきっと持て余す。だったら、もっとタガを外せば良いとなったはず。なんだか「僕らの」の世界みたいだが、1人1人に好き勝手できる宇宙があったら良いだろうなと。

 

ただ、僕はこの宇宙がもともとそういうものだと思えてきた節がある。最初に思い付いたのがコレになってきているのも順調にタガが外れている感じで良き。僕の中でのタガはモノを教えてくれた人の中にあるものさしの集合体みたいなものだろうか。

 

さておき。

 

宇宙の開拓としての水まくらは朝の勢いでぽちった。ブルー軍曹より4倍くらい階級が高かったが、レビューにあった、「返り血ならぬ返り水が凄い」というフレーズが面白かったため。動機の基準がよくわからないが、明日届く。なんにせよ楽しみ過ぎる。

 

こんな感じで毎日ふわふわと楽しみが尽きないが、もうこの感覚が不謹慎であるという縛りはやめようとなっているみたい。不謹慎であるというタガは外してしまえば、誰だって生きているだけで不謹慎だし、不謹慎だという言葉を発する人ってほんとにそこまでそう思っていないのではないかとなる。言葉は本心を込めなくても心の表現になりうるし。

 

タガの外れ具合でいうと、好きな人に私信で弁当画像を送りつけるという暴挙をやってみた。なんの反応もないが、積極的に嫌だということでなければどうでも良いかなという気分。僕が送りたくなってみただけ。

 

明日は昼ご飯にオムライスの試行をやってみようと目論み、ピーマンを買ってきた。はて。オムライスの具材って、何が正当なのだろう。僕が作るときは鶏肉、人参、ピーマン、玉ねぎとかだが、コーンとかグリンピースが入っているのもあるような(お子様ランチのイメージ)。好きな人はピーマン大丈夫な人だったか、過去の日記で出てきたことはないような。

 

とりあえず明日はオーソドックスに包むタイプを作りたいが、普通に作ると単に被せるだけになるんだよな、なぜなら、チキンライスを多く作り過ぎてしまう。

 

あぁ、別に現実で振る舞う予定は一切ない。笑

 

実際にそんな事象があったらそのエピソードは日記では報告されない。空想でも妄想でも問題なく、自分が直に行動に起こす影響値をもっているということだけが問題。気持ちは行動と連動してなんぼである。楽しい気分にさせてくれるだけで、何かしたいと思わせてくれるだけで、存在として十分過ぎ。

 

 

 

ちょっとふつうの現実の話。

 

先輩男子と女性上司の雑談を聞いていて、なんだか原始仏典が思い出される。

お互いしんどいねーしんどいねーみたいなところとか、なんだかお互いがお互いの機嫌を取っている感とか。自分を調えるために他人が要るとすれば、自分が自分の主にはなっていないということ。

 

自分が自分として在るというのは絶対的な指標だと思うのだが、タガがあると難しい。

こういうことが素朴に想えるようになったのも、いまこうなっているからこそ。

 

何に価値を置くかなんてなんでも良いが、それが誰にも賛同を得られなくてもそうだってできるのが主のつとめではなかろうか。理法は当人の中にしかない。

 

今読めているからしっくりくるのだよな。

 

老いの話で辛辣なフレーズはなんだか不謹慎ながら笑ってしまった。

「学ぶことが少ない人は、牛のように老いる。かれの肉は増えるが、かれの智慧は増えない。」

 

僕は牛のように老いることができる人を満たされている人している向きもあるから、こういうフレーズを読んでも全然痛くはないのが、現代の善良な人が読んだら耳に痛そうな言葉は無数にありそう。

 

この牛のようなというのは、雑談にも繋がっていて、人生はしんどいのが規定値だという風に生きられることなのだろうなと思う。「むずかしい天皇制」にあったのだが、歴史上の日本人って、税金が多すぎるという意識はあっても、そもそも税金取るなって一揆を起こしたことがないらしい。決まっていることについては疑わないという性質があるのかな。疑うことがない素直な人格だから、自分の感情の前提も規定値とできる。

 

まぁ別に日本に限らずだなと思うのがハリーポッター。この物語の登場人物ってファンタジー的に清らかな人一切いない。いや、死人としてのお母さんはそうだ。ハグリットは無邪気だがはた迷惑。

 

ネグレクトないしいじめで無理もないのは分かるが、ハリーが誕生日ケーキを食べていて幸せを感じるシーンで、「ダドリーはダイエットでグレープフルーツしか食べられなくて空腹だが、自分は満腹で幸せ」みたいな感じで、おぅとなった。シリウスと暮らせることを願うというのも、シリウスが好きだというより、今の劣悪な環境から離れられるという方が強そう。分かるんだが、あんまりファンタジーとしては読めなくなってくる。

 

たぶん現代人の普通の感覚として普遍性があったからこれだけのセラーになったんだろうな。僕の素朴は登場人物の誰にも移入できない。主人公軸はいくつかありそうだが、ロンにはそんなに人間味を感じないような。

 

ここまで真面目にハリーポッターを読み取ろうとした人はそんなに居なかろうな。

 

やれやれ。

 

僕も智慧が増えている気は全然しないのだが、なんとなく日々軽くなっている感はある。

どこかで読んだところによると、知恵は自分だけの判断基準だってあったからそういう意味では増えているとしても、これって増えれば増えるほど、安定とは遠くならないか。外付けの不安からは離れられるとしても。

 

自分の欠陥についてもずっとここを埋めなきゃいけないとしてきた。一般的なものさしをどうにか自分のものにしたかったし、もしかしたら人がここを埋めてくれるかもしれないとして依存関係をしてみたこともある。

 

が、どちらも埋めることはなかった。

 

でも、今や、この欠陥は埋めなくても足さなくても良いし、これがあるからこそ楽しめているのだとなっている。これが目的であって、貴重な体験をしているのだってコメントしてくれた人が居たが、まさにそうですわ。

 

こんなの僕にしかできない。

普遍的な文脈にはならないから誰かに自分を主張できるという意味での自信にはどうあってもならないのだが、だからこそ。

 

そういえば、言葉についての啓発本みたいなのを立ち読みした。

 

曰く、言葉には伝達機能と内なる言葉があって、人に伝わらないのは内なる言葉が醸成されていないからではないかという話。

 

これってかなり面白い。伝達機能として言葉を扱っている人の文章と、内なる言葉から書いている文章って、同じことを書いていても味が全然違う。ニュース記事に対するコメント的な文章を美味しく感じないのは、まさに前者の話だから。マイミクさんとか良く読んでいる人でもそれは見ない。

 

内なる言葉だけで書いている人の文章もあるが、これはこれで日本語なのに意味が分からない。他人が見ているという観点が欠けているから。

 

言葉は思考の上澄みでしかないというのも確か。

個人的には、ここは、ハリーポッター感。

 

自分とは離れて何かを考えることができている人の言葉は、響く。

 

僕のは、僕が認められたいが為に書いている訳でも僕の気持ちを伝えたいが為にも書いていないから、響く人にはぐわんぐわんなるのかもな。

 

知らんけど。

 

あぁそうそう、気持ちの話。

 

人の気持ちが分からない人、というフレーズを見かけたのだが、そもそも人の気持ちが分かる人っているのかという疑問。

 

たしかに、自分を宇宙の中心で考えれば、自分の天候的な機微を逐一察知して慮ってくれる人が「自分の気持ちを分かってくれる人」かもしれない。ただ、この宇宙の中心に在る人物は、はたして「人の気持ちが分かる人」なのだろうか。自動説だったら、人の気持ちは自分が気持ちいい範囲にしかない。自分から慮るみたいなものさしもない。

 

ちなみに、僕は自分の気持ちみたいな曖昧なものを宇宙の中心にする気もないし、人の気持ちもさっぱり分からない。言語化も現象化もされてないものを掴めるって超能力者かいなという感じ。

 

だから、別に僕の気持ちを慮ってくれる必要は全くない。

だって、そもそも確定されていないし。

 

こういう不文律で捉えるのが当たり前だという文脈で関係してみたのだが、この関係って要は自分が楽したいだけなのだなと思った。このタガでも相手の気持ちみたいなことは捉えられたのだけど、これの何が楽しいのだろうって。この曖昧性のものさしで生きるのであれば、相手の気持ちを振る舞いとか発言の節々から読み取ろうとしないといけない。

 

いや、実際は別に読み取る必要は全くないけど、そういう世界で生きているならという話。

 

自分の世界には責任を持ちましょうというただの当たり前のことだが、この当たり前を母親に説明しろって言われたら、絶対にできない。僕はあくまで子供であって、子供の意見を聞き入れるというものさしがもともとない。

 

楽しいことを綴るつもりが、いつの間にか重くなってしまったが、重い人は重いままで良いと思う。おそらくその重さこそが自分が自分で在る証左だろうし、もっと軽くなればなんてことを問いかけるつもりもない。

 

したり顔で世の中を知った気になっていれば良い(悪意のある表現)。

 

ちょうど重くなって来たからアレだが、マイミク云々のやつも、きちんと僕に興味を持っていると読み取れないと無理なんだよな。有象無象の交友のカウントにするなら他にしてくれって。

 

他のものさしから外しても僕に興味があるか。てきとーだとぶっ壊したくなる。

 

 

あくまで印象論だが、僕は一般的ものさしよりも自分の印象を信じるくらいには自分のことを好きなので。

 

はい、おやすみなさい。

 

良い素朴を。