自在

 

 

 

本日は、なんというか、頭の中で野次が飛び交っていた。結局好きなんかい、やーい、やーいみたいな。憤怒氏は、甘え過ぎていること、甘えて良い人だと認識していることについて飽きられている。

 

 

さて。

 

随分関係がシンプルになった。件の僕のことを構ってちゃんと評した人は、最後に「消えたいなら消えればいい」、「何かしらは残ると思うけど」、「さよなら、ありがとう」と言ってくれたのだけど、なんともこう、通じていなかった感。

 

人から消えたいのだって何回書いたことか。でなければこれだけ関係を断捨離してないのに。なので、遠慮なく消えた。残りたくないとも書いていたはず。僕の死んだとしても僕のことはさっさと忘れて日常を生きて欲しいって。いや、これは随分前に書いたから忘れられていてもしょうがない。

 

おそらく書いていることよりもきっと人はそうであろうということが優位なのだろうなという感。人の内心を言外から読み取るのは大事だけど、それを自分に引き直すのはよろしくない。自分だったらこうだから人もこうに違いないという風に人を測るのであれば、関係はあってもなくても一緒。確かに、僕にも自分を忘れないでって言った人は居たけど、その人に忘れられていても全く問題ない。「何かしらは残ると思うけど」に対しても、きっと変な人だったなという印象くらいだろうから、さっさと消してくれると良い。

 

同じくらい僕の文章読んでいても、言葉に対する比重が違うのかなんなのか。一回だけmixiで書いている日記をバイト先の先輩と彼女さんに読まれたことがあったのを思い出す。何かを思索している文章だけど、彼女さんはよー分からん、先輩、俺は分かる(具体的な感想なし)、だった。そうだろうなと思ったのを覚えている。この先輩僕が大学時代に通っていたダーツバーのマスターに無茶な問いかけをしたのがとても嫌だった。死生観とかそういうの。あしらわれていたけど。マスター、1人で行っても特に話しかけてこないところがとても心地良かった。

 

消えたい、残りたくないの観念がどこから来ているのかというのもまぁまぁひねくれた話で、人の中に形成された僕像と、ほんとうの僕は違うし美化ないし醜化されても知らんしなという感じがあるから。人に自分を出していないという説もあるけど、どれだけ現そうとしても無理ではないか。これは人のことなんてちっとも捉えられないことの証左だけど僕に与えられたその人だからきちんと残しておく。

 

というとこから見るとこの関係が残ったのは、好きな人が、僕が消えるのはしょうがないけど、僕のメッセージを「楽しみ」にしてましたと言ってくれたことが原因。これだと消えられない。随分初期のことだからまだ効力が続いているかは定かではないけど、まだ続いている感じがしないでもない。

 

何が楽しいかは知らないし知る必要もないが、好きであることとはあんまり関係ないかもしれない。僕が好きであるのは存在についてであって、僕との関係性においてでもないし。

 

好き=恋愛感情であり、独占したいという感情が対人関係において至上であるという感情論に流されることをやめると、なにかとても安心してしまう。日記が続いていることがそれ。僕には読めない(読もうとすれば読みに行くことはできるけどそこまでの衝動もない)けど、ちゃんと生活しているのだなぁって。もはや何目線か分からない。母親の無条件の愛に近いけれど、父親の条件付きという色合いもある。生活を続けるという人生をこなすことをしているという条件、みたいな。

 

もはや、実際に会うかどうかも関係ないような感じ。会える場が在れば最大限楽しく過ごしたいとは思うけど無理やりセッティングしようとも思わないし、「飲みの場」って緊張とセットなのではないかと思わなくもなし。こんなの本意ではない。

 

 

なんだか、僕ももっとちゃんとしないとなと引き締まる。関係の内側としての効果でなくて、外に向かう効果。こんな感情あるのかと訝しいけど、あるんだよな、不思議な話。

 

全然関係ないけど、お弁当時間に眺めているとこちらの紅葉も真っ赤に染まっているとか、本は毎日読んでいるし、生活は滞りがない。何か引っかかるものがあったから日記を書いている訳でもないという話。ずっと書いていたはずなのに、ほとんど誰にも捉えられなかった。

 

 

ともあれ、好きな人が僕のことを固有の関係として捉えている訳がないという相対的ネガティブ自己観についての反論を言語化しておきたい。おそらくこの辺りが弛緩とか甘えに繋がっていると思われる。

 

まず、僕のことが日記に登場したことが1回しかないところ。人ってほとんど登場しないけど、現象としての人は「おやすみなさい」にはよく登場していた。この1回も僕がたまたま発掘した当人のインタビュー記事。つまるところ、現在の人として認識されている。

 

もっと前に遡って、僕はこの人だけに劇評の暫定文章を書いた。それまでの感想文みたいなものは嬉しいと評してくれたのだけど、公に嬉しいと評さないのは、公に書かれていないからだっけ。それでも何回も読んでいますとか。記憶が混沌としているけど、バカンスの感想文の扱いが他と違ったというのは明確。

 

あと、ラクサイオブジェクト(竹林の写真に穴が開いている作品)の時にストーカー的に遠目で見ましたって送った時に、乱れていただろうから恥ずかしいですって返されたこと(個人的は今まで見たこの人の中で最上の美)。普通は気持ち悪いってならんかとなるけど、気持ち悪さではもっとひどいこともいっぱい発信している。

 

最近でいうと、その人ではないかもしれない足跡に対してかわえぇとか言っているし、それに対して、なんとなく肯定的な非言語があるし。惰性ではない非言語はだいたい当たる経験則。

 

要は、一般論ではありえない関係性が構築されているということで良いのかということ。素朴な僕はだからこそここで居ることが心地良いし、甘えて良い人だという無意識がある。なんだか考えるだけで眠たくなる感じ。

 

こうなると、別に直に会ったり、当人の言葉がないと補充にならなかったりもないのだけど、ほんとうにこんな関係あっても良いのかな、大丈夫か。

 

少なくとも、僕はこれで良い。

 

 

では、良い夢を。

 

おやすみなさい。