発見
本日は脳内野次も憤怒氏もなく落ち着いている。しかし、ほんとにかわえぇな。ほんとに素朴な感覚が正しいとすると先には在りえない関係なのかもしれない。変なの。
ともあれ。
社会的に孤立すると人の甲状腺ホルモンが低下するという記事をみた。確かに私的な交友関係はないけいけど、個人的に孤立感はないな。仕事が唯一の社会的場だけどなんとなくは受け入れられているみたいだし、もう1つはここか。
雑談中に少し開示し過ぎてしまった。曰く「気を遣い過ぎ」だとか。残業について暇なのに受電順位が高いままで残業になってしまったら会社に悪くないかという発言に対して。残ってくれる方がありがたいと思っているはずだって対面の先輩は言っていたけど、個人的には、無駄な残業は人件費を圧迫するのではとしている。なんにせよちょっと話し過ぎた。
「気を遣い過ぎ」というのも歴代の僕に対する定型評価。ただ、僕としてはこういうのを含めて当然の営みだと思っていて、特にこの思考が僕の頭の中を圧迫している訳ではない。最近だと職場のビルのエレベーターを待つとき、降りる人が居るかもしれないと思えとか、歩いているとき、自分の足がどう動いているか意識するとか。住んでいるところの階段を数えてみるとか。きっと次点評価の「考えすぎ」にも通じるところであって、僕はあまり世界に対してショートカットしたくないのだ。
これっておそらく普通のところで書くと、潔癖みたいに見えるだろうな。そういう強迫観念ではなくて、この1回の人生を隅々まで把握しようかというゲーム感覚に近い、なんて言ってもきっと誰も信じてくれない。
この素朴な目で見ると相手のことが見え過ぎるから、集団になればなるほど思考を切断する。会話もずれるし。だって、人ってそれほど自分のことすら把握できてないから(僕も当然含め)、発言と観えるその人の全体像には齟齬がある。直近の元恋人さんが、私がいま貴方に対して何を思っているか分かるって聞かれたとき思わず言い当ててしまった。観てれば分かる。悪い意味の方ね。分かってもやらないのが悪かった。
好きな人も動機は違えど「気遣い」で「考え過ぎ」ではあるような気はする。「考え過ぎ」の方が優位なのかな。「気遣い」が気付かれるところまで至っていない。たぶん。この視点で遡ると、文学フリマで他の作品買いましたかっていう発言って、自分より面白い文体があると思いますけど大丈夫ですかっていう言外の意味があったのかとか。発言しか捉えてないから感度は鈍い。発言も真面目だし。いや、僕も現実的には真面目に人と会話しているけど。強引に境界線を越えることはほとんどない。
思い出の固有性の話。
ボーカロイドも嫌いではなくて、最近よく「いかないで」(これも思い出から歌詞で調べたのだけど省略)の歌ってみた、を聞いていたら、もっと昔聞いていたBGMが流れてきて、そこから発掘した。なにせタイトルも歌詞もない単なるイメージだから大変だったけど、断片さえ残っていれば発見できるものだ。プソ山プソプソさんの阿吽のビーツが好きだった。
ついでに当時の自分も一緒に。僕にとって過去は否応なく残っている「いま」と同じ。一般的に言われる「いま」とは別の「過去」という概念に押し退ける必要はない。
人と接していると、自分の過去は他人事のように語られるからそういうものだと思っていたけど、過去とされる自分だってその当時は「いま」だったのだから、エピソードだけが記録として出てくるはずがない。記録だけだったらUSBバックアップと一緒では。
どうでも良いけど、好きな人が文学フリマの時に金額ちょうどで渡したとき、嬉しそうにしてくれたのを思い出した(笑顔がキュート)。気遣いがバレている感。あぁ、そうか。一般的には気遣いって、相手に良く見られるという動機なのか。だから労力がかかるものとされる。僕はむしろバレないようにやりたい派。気付かれた方が基本的には面倒。
本の追加。ホモサピエンスの歴史の話。言語の開発で情報の伝達が詳しくなったというのはまぁ分かる。面白いのが、「噂話」ができるようになったことで他の生物より飛躍的に発展できたという説。曰く、同種の中でどの個体が信用できるかという情報が詳細になったことで、より信用性のある個体同士が集団になれたとかなんとか。
たしかに、現在で見ても人は誰かのネガティブ情報を語り合うことが好きだと観測される。そうやって仮想的・空想的な敵を作ることで集団の結束が高まる。
僕はこういう意味での「噂話」はとんと駄目で原初の世界だったら孤立してとっくに死んでいるだろうな。確かに集団単位では親密度は高まるだろうけど、これっていじめの始まりだなって読みながら連想していた。集団を存続させる為にあぶれた個人を人としないって種としては合理的だけど、個人ではないわな。これができることが社会性だというのであれば、僕に社会性はなくて良い。他人に対する感度が低いのは自分に対する感度が低いと等しい。
そういえば、僕が好きな人を好きな結果は変わらないけど、何が違うのかが少し言語になった。文体への好意の原因。
普通の日記って主観だから、他人が登場したとしてもあくまで主観的にみた対象でしかない。自分が評価するその人という文体。他人は自分の日記世界の登場人物でしかない。
でも、好きな人の日記の文体は、他人の世界からした自分が当然とされている。最近だとシャワーを浴びている時に帰ってきた同居人は、大きな声でただいまということに対して、私を驚かせないようにそうしてくれているのだろうというフレーズ。
「おやすみなさい」でも、主観的な自分と客観的な自分が分かれて書かれている。自分の思想を綴る日記は多々あるけど、世界を分けて書いているのは見かけない。
では、おやすみなさい。
良い夢を。