人間関係は存在する

 

 

 

心ここに在らずの1日。訪問先は何処かの間。

 

 

読みは通常当てに行くものだと思う。個人的にはあまり当てたいということはないし寧ろ外れて欲しいすらある。今となっては当たっても外れても良いのか。でも、当てられること自体が見られているという意味で嫌な人も居ると思うのだよな。それくらいの分別はあります。

 

誕生日、祝われているようで良かった。良かったのに何か冷える。

これは僕が誕生日を祝われることが、あまり喜ばしくなかったところにあるため、読み方の問題ではない。

 

これがなんで嫌なのかというと、タスクっぽいから。

祝いたいではなく、そういうイベント事であるということが前提になっていること。記念日とかもそうか。いや、もちろんイベント事を過ごす人たちは「祝いたい」もあるのは分かる。でも素朴に考えると、生誕を祝福するとか出逢いを想うのであれば、別に暦に無理に合わせなくても良いんじゃね? となる不謹慎な人格。

 

あんまり厳密に考えてもアレなのだが、人の誕生は誕生日ではない。誕生日って何が基準だっけ。母体から露出された日なのか。出生届ってこの日を提出するのだっけか(知らない)。でも生物的物理によるなら着床段階とかでも発生はありうるし、人格の誕生で言えば自我が形成された時点でもっと後になる。いや、誕生日会している時にこんな小難しいことを言っていたらドン引きされるのは知っておる(やったことない)。

 

とか言いつつ、僕もかこつけて便乗してメッセージを送ったのだが。だって送りたかった。僕のインターネット世界でのコメントは全て「したい」に依る。宵(酔い)に任せて送ったフレーズの中で「生まれてくれて、僕の世界に存在してくれてありがとうございます」みたいなことを書いた。

 

自分の言葉について意味を分析。なんでその言葉を発したのかは、相手のことではなくあくまで自分の範疇の話。全部本心だから別に問題はないが、なんでこんな一見ポエムっぽいことを発することができるかって、読んでも引かない(引いても問題ないけど)ことに安心があるから。この安心が三次元的でないのも変なのだが、先に進む。

 

この「生まれてくれて」って、生物学的な意味の出生を示していない。僕は生身のことの人の事は全然知らないから、文章体としてのあるいはインターネット世界上のこの人の生まれを見ている。素直で律儀というか、配慮がある人格。遠慮なのかもしれない。

 

当然ながら、「僕の世界に存在してくれて」という文言も、生身とは無関係のこと。

 

ほんとはこのフレーズについて考察するつもりだったが、アドリブで前置きが捗った。

 

ここで言う「存在」と「関係」は僕の中でとても似ている。この人はブログで「人間関係は存在しない」ということを書いている。発端はこの文章かもしれない。美味しい。

 

僕の中の世界は、物理的三次元の時空というより、主観的な認知ないし認識を問題としている。誕生日会に疑義があるのは、もともと世界にあったものだから。自分で見つけたものではないという意味合い。

 

で、存在と関係の繋がり。

 

例えばその変に生えている雑草。何かで見てこの雑草の中の1つの名前を知る。ヘクソカズラとか。そうすると、雑草の中からこの草が浮き上がって見えるというか、目に留まるようになる。僕はこの自分の世界で「目に留まる」対象が存在であり、この存在を認識すること自体が関係なのではと想っている模様。

 

人だって同じこと。人一般の中から個人が目に留まる、見出すこと自体が関係。

昨日の黄色の絨毯で言えば、一見全部同じイチョウの葉だが、その中で目に留まる一葉があるのかどうか。

 

物理的な行為とか時間の重きは三次元的な関わりであって確かにこの意味では人間関係は存在しないと言える。あくまで当人それぞれの世界がたまたま一致しているというだけ。いや、もちろん三次元は肉体の維持だから大事。

 

僕の存在をこの意味で見ている人が居るのかというと、現実は皆自分の世界で手いっぱいだから、目に留まるかどうかも素朴ではない。どうしても自分の世界の範疇としての他人になる。もちろん悪いことではない。

 

ただ、そういう見え方の人から捉えられた存在は窮屈になる。可視化されている世界の外での僕は捉えられないのだもの。

 

見えるかどうかも見ようとするかも大事だが、その見ようとする所作があくまで当人の世界観の中の規定値だったら話す気はしないよな。本質に欲望があるとは限らないし、予想とは全然違う根拠があるのかもしれない。

 

僕ももっときちんと存在を捉えようとしなければという自戒。

 

ちなみに、こういう世界観は哲学書には書いてない。あくまで僕のオリジナル。

外からの当たり前の世界観で生きてきた頃よりとても気楽である。僕が生きているのは三次元とはちょっとずれがある。

 

僕は良い人ではないし社交性もほとんどない(そこに時間を使うことに今のところ必要を感じない)が、一応社会性はあるらしい。スーパーでベビーリーフを買うときに、新鮮な定価のものの前に30%引きが1つ残っていた。ちょっと思考。新鮮な方が栄養価が

高いかもしれないが、僕がこれを買わなければ社会的に食品ロスになるかもしれん。どうせ今日食べるのだし、こちらを買う。安ければそれでいいみたいなものさしはない。

 

社会とか世界のことを考えているということではなく、ズレているから余白があるということだけ。これを書くと世の中の日記表現者から反感を買うかもしれないが、僕は日記を自分のお裾分けとしている節がある。書かなくても充実している。だた、三次元的に近くもない人達(いや近くても)には書いてないと存在されていないよなと。

 

三次元だろうが四次元だろうが、僕は誰かに認められることを人生の目的としてない模様。

見続ける人が目に留まるというのはある。

 

個人的な関係論で捉えると宵顔さんはやたらと可愛い。時間の感覚がだいぶズレている感じだが。だからこそ、恙なく生きてそうなのが心配ではある。ついでに、僕が見えていること人が虚像なのではという危惧もある。言葉が返ってくれば都度更新されるのだが、それがない。

 

ここがとても怪しいところで、1つ間違えると大変。

他の人にコメントする時もそういう懸念はある。

 

通常の観念として、誕生日おめでとうございますのメッセージに対して何も返って来ないという不作為は、貴方のことは存在として認知していませんよという確たる証拠であって、ここに従うのが無難。外から読んでいても都合良くあしらわれているという評価はありそう。

 

ただ、何も都合良く扱ってくれない。課金を求める訳でもないし、自分より他を読むように促されるし、一番変なのは僕を読んでいる風なところ。もう終わっているとしたら情報が古いのかもしれないが。

 

僕が人格的に自由であって良いと思えたのもこの人の存在の寄与が大きい。

違うところで生きているに違いないのに。

 

そういえば、自分の場所は更新しなかった。

タスクにしてはあかんというところと、基本的に僕は読まれたい訳ではないという事を自覚しようというところと。

 

自分とは何か。誰かからの評価は問題にならない。そもそも世界の見え方、読み方自体が自分であって、言語はあくまでお裾分けでしかない。

 

でも、この世界に生きさせて貰っているのであればそれくらいは返さないとなという感じはある。

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢を。