ストーリー

 

 

夕方に少し出かけた折、視界の端に白いものが見えて一種の雪かと錯覚した。雪が降るような気温ではないとは分かっているけど、そう見えるものは仕方がない。

 

なんという迂回的な交信。

でも、これで良いのか。何かを決めている感じ。ほんと変な人。

 

東京とはまた遠い。東京まではあまり行ったことはないけど、新横浜までは頻繁に行っていた時期がある。新幹線の車窓で植物の感じが変わるところがとても好きだった。とはいえ、この光景は切なさとセットだから、手放しの美でもないけれど。いや、想起される光景に手放しであるものなぞ何1つないに違いない。

 

今度行くならやはり古書店街は外せない。今のご時世どうなっているのだろう。そうして日記屋さんにも寄りたい。バカンスとビール。あと、前に休園だった御苑に寄って「言の葉の庭」に倣い金麦とチョコを食べてみたいところ。雨が降っていればとてもいい。確かアルコール禁止だった気がするから、あくまでフィクションだけど。

 

なんだか自分に潜っていると、言葉数が少ないな。

無駄な装飾が省かれる。

 

さておき。

 

ハムレットは劇中劇の王が出てきてなんというか凄くメタだ。夢の中で夢を見ている感じと近い。ニガヨモギって何なのだろう。物語の中で物語を見せる意味とは。

 

物語とは端的に言えば想像上の現実なのだろう。人がこれを信じられるのは「現実」だから。ではここでいう「現実」の最低限の要素とは。

 

考えてみると、一定の法則が前提とされていて因果がある程度説得的であることが最低限の要素だと思う。別に幽霊が存在するという世界でも問題ないし、宇宙人が地球を作っていても良い。ちゃんと分かるように法則が繋がっていれば。

 

僕は娯楽小説も古典も自失しながら読んでいるけど、自分の現実の物語と通じているのが娯楽小説よなと思う。世界設定が変わっていて、自分が信じている物語の法則と違うものは楽しくないという感覚。

 

古典の方が馴染みつつあるのは、より自分に関係ないからだろうな。今は、シュリンクの朗読者も追加している。登場人物の思想が分かり易い感じ。

 

で、僕は文学者でもないただの一般人だから、文学的物語に狭めて考える必要がない。

 

法律学を物語として読むのは楽しい。民法は物語というか、社会に舞台に上がった参加者の振る舞いみたいな役者の心得みたいな感じがあってなかなか凄い。違いは人の現実世界にも影響するということだけど、かつては(というか国によっては今もある)国単位で神話が人の現実に影響を及ぼしていた訳で。

 

そこで考えたのが、この意味での物語の機能について。世界観を共有することである程度警戒せずに過ごせるということ。日本人であれば、日本の社会という物語をある程度共有している。仇討ちもないし、通常であれば無理やりまぐわおうとしたり、人の財布を盗ったりする人はいない。

 

ただ、この物語性って自分を生きているつもりになっているかもしれないけど、あくまでこの時代のという注釈付きのものであって、縛りがなくなったらどうなるか分からない。という意味では、神様が見ているから悪いことをしないと法律で決まっているからしないというのは同一の根っこがある。

 

少し細かい話だけど、民法では、人は自分で社会的な関係を決められるとされていて、法律関係を変える本質的な要素として意思表示がある。法律的な効果を欲する意思の表明で、その前には動機があり、物を買うという効果を得えようとする意思があり、それを世界に現実的に表明すると意識を経て、表明に至る。刑法でも意思に基づく身体の動静が行為とされている。

 

たしかに分かり易い物語だとは思うのだけど、なんというかざっくりしている。素朴な人格で言うと、決めようとうだうだ動機を検討する前に終わっていることもあるし、それが法律世界になったら、意思しかないとはならんだろうという意味。大きな判断であれば熟慮を要するというのも分からんでもないけど、なんというか、血が通っていない人間を登場人物としているのだろうなとか。

 

で、政治学の範疇かもしれないけど、国家が国民に強制できる正当性の物語も、古事記時代では、天照大御神云々の信託で、今は国民主権になっているけど、この物語の違いもざっくり宗教ではなくなったって思っているだけの人が多そう。社会契約も説明の違いに過ぎなくないかと思っているけど、あまり言語化できない。効果としては為政者の恣意では何もできないという権威を持った層に縛りをかけるというのはある。

 

そうそう、要は物語の機能は、どれだけの人に求心力があるのか。ハムレットとかドストエフスキーとかプルーストとかカントとかベルグソンとか以下省略の古典が残っているのは、その時代だけではない物語があったから。

 

フロムさんが言う、自分を生きていると思い込んでいる人は、だいたいが時代の物語に囚われているという言がなんとなくわかってきた。

 

そうして、素朴な物語のこと。

 

僕は自分の物語はあるけど物語性はない、今後信じられる因果があると思っていないし。今から遡った自分史が、この先の自分を決めることはないという意味。

 

好きな人の物語の中での僕の役割がよく分からないのはいつも気になっている。僕の中の物語ではヒロイン、いや、僕の中でも異物感はある。飽きもせず会いもせずただ読むという2年くらい。

 

明日はもっと読もう。

 

 

おやすみなさい。