無連動

写真

 

 

 

空中庭園檸檬が黄色に塗られてきている。

 

 

さておき。

 

夢はなんだか混沌としていた。バスに乗ってツアーをしている。ご飯処は何故か全部缶詰めだった。あと、なにやら周辺人物がハレモノに触れるように接してくるのだが、夢の中の僕は何回か人生劇場退場未遂をしているらしい。病院の屋上から飛び降りようとするどうしようもなさとか、意識が覚めて、まだ生きているという物語があまりに生々しくて、あれ、現実でもそうだったっけと一瞬混線する。

 

ちなみに、僕の現実は特に大きな病気もしたことなく、入院を見舞ったことはあるが入院をしたことはないし、とりあえずそんな願望もない。夢の創造性は凄いな。退場願望の因子っておそらく誰でも持っているとは思うが。自我を創造したことで無理が生じた部分。

 

 

なんだか暗い感じだが、暗さも明るさもどちらも在るのが人間。今日が月曜だと分かるのは、今日が月曜だと思考している間だけと同じような感じ。ただ、暗がり寄りなのは自覚されており、これっておそらくいまとりかかっている部分がかなり根深いからなのだろうな。

 

思考のない気づきが人の本質だとすれば、世界観が一新されるし、素朴な僕が受け入れても経験則上のはすんなりそうはいかない。まぁ真に受けるが、最終的に丸ごと無批判に自分のものとして採り入れることはしないから、上手いこと調整はかけるのだろうが。

 

現実世界は社会的仮設に満ちているのは認識されてきた。かといって、現実的な雑談の時に「世界は空ですよ」なんて空気を読まない言動はしない。笑

中道はバランスを取ることで、それがほんとだとしても、俗っぽいところでも生きて問題ない。あるがまま。

 

あるがままになると、自然と安らげるようになり、人に手を差し伸べることができるようになると書かれていたのだが、素朴には確かにとなるのだが、一般論としてどうなのだろうとはちょっと疑問。安らぎは、自分としている負の要素が相対的なものでしかなく、それを絶対的なものとして抵抗することから解放されるという意味では分かる。絶対的孤独感とかではなく、何かとか自分とかと比べた自分との差異に対する葛藤が負の現われのほんとだろうし。

 

手を差し伸べるは、僕だと善人には評されたくないが、自転車が倒れていると起こしたくなるし、辛そうな人には同情せず寄り添いたくなる。これが抵抗なく(対価がなくても)できるようになるのは良いことだが、一般的に皆そんなことがあるのかというのはどうなのだろう。おそらく世界に対して余裕ができるということなのか、利害がどうでも良くなるということか。他人のことはさっぱり分からぬ。

 

森博嗣さんの本。凄く問題意識が近い気がする。ただのシンクロニシティ

普通の小説の体を取った哲学本。気持ちとはなんぞやという話が書かれていた。気持ちとは経験則をベースにした、体調とか気分のランダムによる反応でしかない。こう仮定すればAIにだって気持ちは芽生えるよなって。探偵物語になんでAIが出てくるのだという感じだが、これぞ森博嗣節。

 

気持ちはものではないし存在するものでもないが、人はそれを捉えて受け渡しができる。物とか言葉にならないと交換できないとするのが社会的な常套句とかプレゼント(お歳暮)とか。僕としては、気持ちの本質は物に変換されないし言葉の行間に在るような感じだが。

 

悟りの本が入ってきて一挙に世界がより分からないものになった。世界というのはすなわち人のようなものだし、何か統合的に分かり易い基準なんてないよな。知っていたが途方もない。でも、この途方もなさが楽しい。

 

言葉は呪い。と、考えると、やっぱり人の本質は物質的肉体より言葉の方が近いのでは。物質的な肉体も言葉も流行り廃りで、その時代における好まれやすさがある。ただ、現代人はインターネット世界に進出したことで、物質を前提としない観念の世界でも生きられている訳で。

 

というより、人が客観的だとしている世界観のほとんどが、観念上のものでしかない。

法律のルールで構築された社会が観念そのものだわとなってきた最近、条文読むのが楽しい。

 

ここでいう観念は悟り本でいうところの思考。

 

どんな教科書にも載っていない法律談義。

 

憲法モデルは、人には個々人に人格という毀損できない価値があるという観念をベースに個人の自由をルール付ける。これは逆から読めば、社会に認められることで個人の価値があるみたいなことになって、だから夫婦別姓みたいな議論が出てくる。性的マイノリティもそういう節があるが、現実的な不便も含まれるしなぁ。

 

民法モデルの人物像は、ミクロ経済学の人の合理性(目的に適う効用をきちんと判断できること)を持ち合わせた個人同士の社会的取引関係がベースになっている。ここでいう意思は、自分の行為が法律上どういう効果があるかを知った上で、そういう効果を欲すること。不法行為が最も裁判沙汰になる案件だが、これも社会的な損益を均すという意味合いでしかないのに、個人の素朴な人格と連動されている。損するとか得することで人は揺らがないのに。

 

刑法モデルは、人は禁止されている行為が設定されている一定の言語規範を認識した以上、行為をしないようにしないといけないのに、あえてそれをしたということを意思(故意)とする。裁判で問題になるのはこういうところだから、一般的な常識観からは乖離するところはあるが、この観念は社会的にはそういうことにするしかないという暫定。若干社会に生きていれば通念というか空気としてそういうことは分かるのが当たり前みたいな行間がある。

 

オトナ向けの法学教育はあっても良いと思うが、自分が安定してしまうと新しい観念は採り入れなくても良いとなるのが人間。ルールが完璧なものだったら、とっくに全国共通のルールが完成されていて、それがないということはそういうこと。

 

定期的に流行ってくる、漫画やゲームが子供に悪影響だという風説が嫌なのは、本当に子供の為ではなく自分の為に子供があって欲しいみたいなところなのだろうなという意図が滲むところ。

 

やれやれ。

 

宵顔さんが僕の文章を読み取れる人格なのかがとても怪しいのに、なんで読んでいる風だったのだろうな。別に答えを知りたい訳でもない。教えてくれないのがこの人な感じだし。自分の更新を見て欲しいだけだったら、別に好きでなくても見まするのに。

 

鏡理論的には、僕の私信をなんらかの癒しにしていた向きもあるが、まぁ知らない。

 

全部素朴になったとしても、一応社会的な関係性というものがあるし。これは友人では足りないし、恋人さんでも不十分なのかも。特定の誰かに対する対話的言語は僕を決めない人であればほぼ無限に展開されうる。

 

もちろん、これが一般通念上失礼に値することは分かっておる。

 

悟り本で、自我に欠陥があるストーリーに登場する時系列の人物群の話を書いたが、僕は僕を欠陥的に評価した人達の欠陥の方が気になっている。ぼろくそに僕を毀損しようとした姉がちゃんと上手く人生過ごして居れば良いなとか。都合の悪い存在を切ったとしても、都合の悪い存在は別の人として現われるだろうし。

 

僕が自分の兄妹とあんまり関わらない方が良いと思うのは、劣等感に苛まれるのではという遠慮がある。素朴では、姉とも妹とも別に関われると思うが、この人達、僕が母親に寵愛を受けていると思っている。寵愛なんて全く受けてないのだが、物質的な支援をそう捉えるのはまぁ分からんでもない。気持ちは全く入ってないのに。

 

はい、こんな感じでおしまい。

 

ほんと、世界は大変。

 

良い夢を。