自己確認

 

 

書く方向にスイッチが切り替わりフルスロットルだったから昨日の日記の雑さに目も当てられない。まぁラフスケッチという意味であれば誤字以外は目を瞑るか。あの境地でいつも書けるようになれば、、、って四六時中スーパーサイヤ人で居られるようになるみたいだな。

 

さておき。

 

本日の夢はなんというか過去と今がごっちゃになる夢だった。いまの自分という概念を再構築しているところだからまぁ仕方がない。もしかしたら梅シロップを飲んだ後に歯を磨いたら歯が黒くなったという呟きを見たのも夢かもしれない。どちらにせよ証明できないし、問題はない。なんで問題ないかというのが本質的な問題なのだけど、それは後で。

 

午前中は某漫画にハマっていた。もじゃもじゃ頭の主人公が蘊蓄や思考や観察したことを無駄な程に語るミステリー。作者が気になるほどになったのは久々。なんだか主人公が自分の1つの世界線のように見えたから。人を殺してはいけないのはある空間で区切られた社会における便宜上のものだとは僕も思うけどおおっぴらに表明したりはしない。あと、山羊に足の裏を舐めさせる処刑法とか、ワニは噛む力は強いけど開く力はとても弱いとかの蘊蓄、どこから仕入れたのか分からないけど知っているし。

 

まだ連載中だし既刊全部を読んだわけではないけど、主人公を裏返すとあらゆる蘊蓄を収集しているようで、親子関連もっと言うと虐待や児童心理についての知識に考えが深いから、何か問題があったのだろうなということが読める。あと、無駄に語ってしまうのは回想シーンで、ある人が自分に考察することを促してくれてなおかつ聞いてくれたところに根があるはず。つまり考えてそれを誰かに話せることで自分の存在を確認するようになった。考えることが自己存在で、これを話すことにより関係における存在を確認している。どう聞かれるかは二の次。だから自分の考えと違う考察もちゃんとしていれば好きなのだろう。自分の考察の糧になるから。ついでに人のことを良く見るのは見ないと生きていけない環境にあったから。僕はここまで行かなくて済んだけど。

 

そうして午後は、noteで文章を書くことに当てた。コーヒーと煙を呑み過ぎてやや体は気持ち悪いし、脳が凄くエネルギーを使った脱力感はあるけど、心はすっきりした。

 

しかしまぁ、変人というか暇人だなと思う。誰かに喜ばれる訳でもないしそれで自分が潤う訳でもないのによくもやるものだって。ただ、自分の性質が発掘されてなるほどなともなり。

 

僕はいくら書いても自分の存在の表現とはならないし、それを認められたところで、お、としかならないことは何回か書いていると思う。この根っこは承認欲求とか伝達欲求が欠けているということではないみたい。

 

昼に文章を書いていたとき、眼差しとはなんぞやという文脈から自分は何をもって自己承認、というか確認しているかということが判明する。眼差しは世界がどう見えるかであって、それは当人の今までの知見、経験、価値観、倫理観、気分、諸々のその人の全てが反映している、存在の現われだとした自分の見解を見て、眼差されれることを問題としてないなと。

 

誰かに眼差しを向けられることは、その人の人生の舞台に登場できることで、これが自己承認になるという性質はとても分かる。だから、人は誰かと会うという関係をせざるを得ない。眼差しを向けられないと存在が保持できないし確立もできない。自分の眼差しは眼差される為に使われる。

 

ただ僕は自分の眼差しの変化を注視しているし認めているから、世界がどう見えるかというところだけで完結されていて、その先はあくまで無関係の領域なのだろう。かといって、他人がどうでも良いというにもならず。同じように見ないと世界に成らない。眼差しを尊重するのであれば、他人が世界をどう捉えていることはとても大事なことで、眼差されれることを尊重するのであれば関係者は多くても自己完結で世界は成り立つ。好きな人についてはここのちぐはぐさが興味対象なのかも。

 

ではなんで眼差されるような文章を書いているのかというと、眼差しを前後する思考も自己存在で、この存在を視覚化させるのは眼差される可能性があるところにしかないから。物理的な体に付着する眼差される表象を人とするのも良い。体が全ての資本だし中核に置くべきところではある。ただ、そうじゃないから仮想空間で人格の理想化が行われていることからすれば、人全体ではないわなというだけ。あまり逃げるのもどうなのだろう。

 

なんだか語り口がカントさんみたいになっているな。判断力批判がさっぱり分からないため純粋理性批判の上巻から読み返すことになった。

 

そうして本分を書き切って、スーパーへの徒歩道中にタイトルを考える。「死」、「仕事」、「争い」は、生活にまつわるものだけど、生活の概念に含まれているものではない、付属しているものでもない、とああでもないこうでもないと考えて、結局があのタイトル。生活をしている上で必然的に起こるイベントだなと。

 

そういえば、僕の自己承認がこういうかたちになったのはなんでなのだろう。観るということが重視されている傾向はもともとあったようにも記録されているけど、人ってもともとみることから始めている訳で。このみるは世界を食べるの方が分かり易い(いや、逆にわかりにくい)。トラウマ的に考えれば、自分への眼差さされの椅子取りゲームからの逃避みたいなことは推測できるけど、いや、だったら何故楽しんで居られるのだという不思議もある。

 

人は見たいように世界を見るという世界観が眼差されれで、あるがままが眼差しであるのはなんとも皮肉。

 

これで言うと、僕が好きな人を好きになったのは文体とかルックスの前に世界への態度なのかもしれない。もっと分かりやすい世界で生きた方が良いですよと思うところもある。当人もそうしようとしているように見えるし。

 

あと、これもつぶやき界隈だけど、自分のリソースを自分の為だけに使うアダルトチルドレンが増えているという言があった。家族を養うとか子供に時間を遣うとか犠牲とか奉仕の方向になるべきとか。一瞬僕もアダルトチルドレンになっていないか、いやなっているかとと思いつつ、子供は自分の為だけにリソースを遣い、大人は他人の為に遣うという観念も想像上の秩序だよなと。共通的PIPE DREAM。確かに何か溜め込んだものは世界に還元しないと循環しないけど、大人がやっているとされているリソースの分配も結局のところ自分の為よねって。形が変わっただけで、そういうのは大人がやるべきだという規範。人間は動物だけど動物でない領域もある訳で、この領域での還元の仕方も当然ある。自分のことを世界に発信することだって、自分を分配する奉仕的な側面がある。眼差され視点だと、誰かの言葉がなくなっても他に読めるものはある訳だから、人の言葉の価値が分からないし、ということは自分の言葉の価値も分からない。

 

ここで書けることはとてもありがたいことだと自戒。

 

どうでも良い話だけど、自由主義であることって良いことばかりではなく、自分にとって不快なことも現れるし、自分が不快とされることも当然ありうる。不快なものをなくしたいなら、自分も制限されることもセットだけど、そこまで考えているクレーマーは居るのだろうか。

 

ここまで。

 

今日は文体が昼の文章に寄っているから明日の自分はあまり眉を顰めないはず。

 

では、おしまい。

 

おやすみなさい。