運命

 

 

 

まさか「一頻り」がぱっと読めないとは。ひとしきりって文体の音としてはなんとなく頻繁に使われているイメージだけど、今まではひらがなだったのか、記録にない。好きなのか使い勝手が良いのかは知らないけど。

 

ともあれこの時代の良いところはちょっとした分からないことだったらすぐに調べて体得できること。記録方法の古代って石板で記録に取っていて、記録の仕方を体得している専門家が居たらしい。現代のデータベースの起源なのだろう。とは別に、僕は人に聞くという行為がとても苦手だから都合が良いのが本質。確かに人が体得した知見をなんの対価もなく教えてもらうというのは気後れする。仕事ですら思うのだから、よほど根が深い。

 

好きな人に質問を発するのは、答えが聞きたいというよりこんなことを疑問に思っているという表明に過ぎない。いつか答えを返されたときすげぇ無理して答えてくれているんだなと感じてとても申し訳ない気分になった。答えなければいけないという義務で縛っている感じ。今は返さなくても何も変わらないという前提条件込みの無関係だからできているだけ。では、何故表明する意味があると思っているのかという次の問題。なにか意識化できていない死角があるのだろうか。全く分からない。

 

さておき。

 

本日は仕事場近くのスーパーに歩いていった。普通に最短距離で歩けば往復50分というところ。単純に歩くのもとても好き。自分がちゃんと思い通りに動いているかの点検になるし血流と頭の流れはちょっと連動しているし。こういう動きの連動がキーボードのミスタッチを無くすとか手書きの文字の制度に繋がるような気がする。僕は自分の手書き文字嫌いで、主に家族に下手だと言われ続けて来たものだからちょっとしたコンプレックスがある(否定から入る性質ほんとやめてほしかったし、ほしい)。ただ、中学生の頃、僕の癖字を好きだと言ってくれた人もいたことがあって、なんとなくこれが温かみにはなっている。まぁ結局は自分が書いた文字に対する形上の頓着がなかったということで、ここから操作できる領域だろうなという当たりはある。自分において操作(修練)で変化できない領域はそんなにない。一番厄介そうな中身の言語化はできたのだし。

 

そうして帰り道は神社に寄る遠回りをした。なんか空気が好きなだけで特にお参りはしなかったけど。もう真っ暗な夕方なのに人がまだ居たので。まぁまだ信念二日目だから当たり前だった。失念。お参りするなら、今年もなんとか生きてくのでどうぞよろしくみたいなことしか祈らないからどうでも良いのだが。

 

神社の空気は静謐な感じでとても好き。出雲、伊勢、平安、橿原、それぞれの神宮でとても良い。神社繋がりで、直近(もう2年前になるのか)の元恋人さんと京都に行ったとき、有名な縁切り神社に行ったことが芋ずる式に思い出された。結果的には当人も居なくなったことを含め縁が無茶苦茶切れて、名も覚えてないけど凄い効力だった。ついでに、小学校の横に小さな神社があって、鳥居に石を投げてちょうどよく上にのると願いが叶うゲームをしていたのを想い出す。確かに石はもともといっぱい載っていた。そのときの僕が何を願いたかったのかはあんまり知らないけど。

 

あぁ、僕は神道の宗教体系を信奉してるわけではなく、神社特有に流れている空気が好きなだけ。念のため。

 

人の思考って体系的で論理的ではなく、芋ずる式であるという1例。

 

人が聞き手より話し手になりたがるのもこういう機能由来なのかもしれない。いちいち人の言葉に自分を煩わせるキーとしての言葉があると理に適わない。ある意味省エネのための話し手という役割の占有。リツーイトの機能とか他人の話を聞いている訳ではなく、あくまで自分の主張のために人の発言を遣う所作だろうし。

 

何か発信したい欲求は、誰にでもあるなんてことはなく、ある意味仮想世界での存在証明のためなのだろうな。どれだけ読んでても、なんかこの人可愛いなとか、考えてそうだなというのはあるけど、どう善解しても当人の証明っぽくはならない。まぁそうやって遊ぶ場だというのは分かる。入籍のtweetを見て負の感情が浮かんだのは秘密。まぁ架空的な形で承認欲求を満たしつつ私生活はちゃんとするというは当然に見えるけど、僕はそんな風に人格を分離できる人がひたすら怖い。この怖さは養護教諭である母親が良い先生だと捉えららえつつ、家庭ではヒステリーでしかなかったという人の人格の表裏性に由来している。きっといいことを発言してくれたって何か裏があるでしょうと。

 

この怖さが共有できる人ってどれくらい居るのだろう。なので僕は個人的に裏表はないように生きることを指標としている訳なのだが。好きだと言えば好きだし、触らないと言えば触らないし、生活上の人に見られたくないのは単に僕の印象がブレて面倒だろうなというゾーニングでしかない。まずもって僕は人に自分を伝達したい人ではないし、この文章で知ったと思われても困る。

 

現実に見るカップルのほほえましさと違うのは、伝達と伝播の違いだと思うのだけど、この違いって普通の人に説明してもきっと分からない。伝播は勝手にそう見えるもので、伝達は自分の承認欲求の為のもの。でも、他人のことを全く尊重しないのであれば、そういう方向性もありのかもなのな。相互欲求なのかもしらんから知らん。好きな人もそういう風に他人として観てくれると安心できるのだが。

 

 

そういえば、運命とか宿命という言葉より僕は縁が好き。前者は主人公的な言葉だけど、縁は関係的な言葉なので。だいたい覚えている自分が好きな人に何故コメントをしようと思ったのか、どうやってその文章を見つけたのかが全く分からない。

 

ところで、自分のnoteにコメントがあり、その人は俳句畑の人なのだけど、こういう「必要ないけど意志が作用している」言葉はとてもほっこりする。ちゃんと人を観る人なのだろうなと。当人にはあえて言わない。僕の日記に創作性があるとは思えないな、はて。何の縁だ。

 

縁の定義はてきとーにいうなれば、生活圏の外にある親和性。

主人公同士の物語がたまたま交錯する瞬間。

 

はい。感想。

 

好きな人の文章の美味しさが分かる人は僕以外には居ないはず(言い過ぎ)。出てくる登場人物に対して否定的なものがない。一般的には当たり前と評されるかもしれないけど、人を自分の為に否定しないことと、ただ否定しないでは味が全然違う。魅力的なのは、ほんとに個人的に魅力的だと思っているはずだから。

 

死の証明の演劇もとても良い。美学テーマの小説のコメディのシーンを思い出す。毒と書かれいるちょこれーとを食べるか食べないかというやつ。

 

 

今や人の生は、誰かから観測されていることが前提とされている。

 

個人的にはあんまり関係ないけど。

 

 

では、おやすみなさい。