開門

 

 

昨日の日記の反論のように、僕が接したことがある人達が全員集合した夢だった。4つの列にずらっと並んでいて、僕はその集団に歩いて向かっている。どの列の人も僕を呼んでいて、3番目の列を選んだ。「無難だ」という声が聞こえてくる。その列の先頭の人が高校時代2年一緒のクラスだったのにほとんど話したことない女の子だったところからすると、存在感順かと思ったが、イケてる順なような気もする。

 

最後尾に並んだら、小学校と中学校が同じで家が一番近い(とはいえ徒歩30分くらいはかかる)幼馴染のような女の子が居て、何かを話していた。この人とは学生時代には特に交流がなく、むしろ大学に入った後1一瞬だけ近かったことがある。飲んで部屋で泊まった朝、1回だけキスをした。その先はない。匂い的に相性は良くなかったのだと思う。どう過ごしているか気になるが、あえて世界を交錯しようとも思わない。

 

色々芋ずる式に諸々思い出したけど、自然とそうなるみたいなことがないというか、ある意味フィクションみたいな生活史。やることをしなかった(なんだか下世話だ)。ただ、これにより自分は相手から欲されていないと認識されてきたというのはあるかもしれない。性嫌悪は特にない、いやある程度はあるのか。

 

 

さておき。

 

「ほんとに大事なことは言葉にしない」という命題が昨日(自分の中に)あったのだけど、とても乱雑だと自己評価。クオリアみたいな純粋な体感は言語に変換できないのは確かだとしても、言葉にしようとする試みはあって良いし、「できない」と「しない」は結果が同じでも全然違う。この乱雑さがどこから来たのかというと身分不相応な感情だったりしてなかなか恥ずかしいところ。

 

現実生活。

 

母親との通話。田舎特有のネットワークって改めて凄く恐ろしい。狭い世界だから、どこの誰が感染したのかというのが社会規模で共有される。どこどこのだれだれがって具体的に挙げられる情報力よ。僕が学校という社会を好きではなかったのは、僕が特定の誰かに発したことが他の誰かに知られている感じ。情報は共有財産で個人が未分離みたいな。あぁ、だから独り占めしてくれるのが心地良いのか。そういうとこも好き。

 

新刊枠も読み終えてしまった。次は森さんを狙っている。

 

解説は読まないが、この本は作者あとがきがあったから読んだ。なるほど、この人格だからこの物語が生まれたのかと鳥肌が立つ。物語は衝動として起こるものであって、後で読み返してもほんとに自分で書いたのかとなるとか。確かに凄い含蓄があると読めるにかかわらず、文体に操作性がないような感じ。

 

あと最新だからこの時代性についても書いていた。何気ない交流がどれほど大事だったかのかを知らしめたみたいなことを言っているのだけど、僕は割と逆の見解。ほんとに大事な人とはどうあれ交流しているだろうし、自分にとって何が必要で何が無駄だったかというのが浮き彫りになっているだけではという次第。この余剰が経済とか余暇を回しているというのももちろん理解はしている。でも、会って話すことがほんとの意味で交流と言えるのか。時間の共有は確かに希少だけど、この希少さを低く見積もり過ぎていたのではとか。

 

そういえば、トルストイさん。ブックオフにあるかと思って行ってみたらピンポイントでなくて、リブロに行ったらアンナ・カレーニナがあった。個人的には「争い」繋がりで「戦争と平和」がやってくるかなと思ったけど、僕の人生の縁は僕の人格と同じでひねくれている。

 

「幸福な家庭はどこも似通っているが、不幸な家庭は個別的だ」みたいな冒頭文から始まる物語。このフレーズどこかで読んだ気がするなと思ったけど、どこで読んだかは問題ではない。問題は、本を読めば読むほど知らない本が増えるという矛盾。認識は物ではないからもしかしたら意識においては自然法則なのかもしれない。

 

読書録って、結局は自分にとってその本から反応した部分はどこかみたいなことが多い。僕は読んだ時の自分がどう読んだかだから自分にとって何か価値があるとかではなく、料理にとても近い。ただ胃袋と違って、空腹の渇望で美味しくなるとか満腹になって食べられないということはない。

 

「脳は私でない」は意識の分析の話になっている。面白いなと思ったのが、自分を意識できる前提というか意識が存在するときには評価が先行しているという話。たしかに月が綺麗だって意識できるのは、月は美であるという評価が先にあるし、脳内で自分が意識される瞬間って、何か対象がないといけない。その対象に対する評価によって意識の方向性が決まっているってとてもしっくりくる。

 

人は無意識下のコントロールの自動制御で歩けるし、会話もできるし、自分が自分であることも自明とみなせる。独り言に意識を感じることができるのは対象がない手動だからだろうな。独り言的に言葉を綴るときには否応なく自分が対象として俎上に載る。

 

意識のことを常に意識することができるのは賢人だっていうフレーズがあった。僕は賢人ではないけど、自分の意識については四六時中モニタリングしている感じはする。だからといって何か現実的に激変するなんてことはない。救いとしては、一般的な人はそれほど自分も他人も意識していないということが分かってくるくらい。

 

思考地図の人は経験主義に重きを置いているようで、おそらく現代日本人もこちら寄りの人が多いと思う。年功序列とか終身雇用制とか。でも、ただ続けさせられたことと、職人のように続けて磨いたことって全然違うと思うんだけど、一緒くたになっている。

 

ここから先はあまり言語化しないような気がするので省略。

 

 

僕個人の話。

 

僕は内的闘争とは別に、内的統一化みたいなことも試行してみたいなと思っている。僕の中身がどれだけ現実生活に公開できるのか、その限度を探るみたいな。この1種が劇評だったり、最後だろう演劇の質疑応答でのスピーチだったりする。そんなに邪なものではないのだけど、標準が違うからあんまり広く公開しても意味が分からないだろうなという常識が邪魔をしている。

 

古典の小説が面白いのは、須らく内的開示だからだろうな。

 

それで今まで残っているのだからほんとに稀有な人格だったのだろう。

 

 

という感じで、謝りに行ってきます。

 

おやすみなさい。