徒然

 

 

 

現象が変わってくると可能性がブレる。

言葉の現実化はあくまで独り事であって、それ以上は縁事でしかない。

 

さておき。

 

やはり経験による含蓄というのは凄いなと仕事で思った。この「差」というのは如何ともしがたい。ただ、この「差」を不文律で占有するのもどうなのかなという感じ。言語による継承を放棄しているような。この意味で言うと、先生は自分の含蓄を言語化して振る舞っているから別の軸で凄い。継承に対する慮りが全然違う。

 

ホモサピエンス全史で、歴史の継承のためには言語が必要だったというフレーズがあった。言葉は本当に自分を表現しているものなのだろうか。結局のところ、どういう風に、何を話したとしても当人は変わらないような気がする。

 

深くなる前に、現実の話。

 

好きな人が、去年の3月から日記を毎日書いているけど、今の文字数は当初より多いみたいなことをつぶやいていた。読みたいと思う前に、ほんとに凄い人だなと感じる。変化できる人だ。最初に見つけた時にはそこまで言語記録について欲求がなかったように読める。思考を吐露する為の言語が美味しかったのだけど、記録部分の細やかさはなんとなく制作日誌で分かる。開いて良かったな。

 

 

僕はというと、完全に毎日は書いてないけど、匿名的にこういう風に書き始めて、おそらく10年くらいは経っている。だんだんと文字数が増える感じはとても分かる。ただ、僕のは自分の記録の為の言語化では無理で、可能性的な読み手でも良いから読み手が居ないと言語できないところがある。だから、書きたいことがあるということはなくばら撒きみたいなところに言語があるということ。文章が与えるものだって評して怒られたことがあったが、伝えたいとか評価されたいというところの外にある文章の存在を受け入れらてなかったのだろう。

 

自分自身は「凄い」の評価対象ではないから、自分が続けていること自体には、こいつ「狂人」だなという評価しかない。僕が収集した常識の中ではこんな人物はいないから。別に自己満足のためでもないし。積み重ねることに満足なぞ感じない。

 

そうして、去年3月からかぁ、今年の七夕くらいまでは読めてたなぁ、「おやすみなさい」の方を読み返そうかと思って購読中の記事を確認したら、日記の方に見たことない文面が表示されていて、!。

 

なるほど、ここで書いていたけど公開していなかっただけなのか。なんだかタイムマシンに乗って過去を見ているみたいな不思議な高揚感。なんで読めるようにしたのだろうというのも不思議。

 

高揚感に任せて、劇評の応募メールも送ってしまった。結局参考文章データは前の劇評のデータがなかったためnoteの記事をPDF化したものを送った。せっかく独り占めしてもらっていたのに申し訳ない。こういうのって製作者側にも共有されるのかな。企画担当の人は定型文がほとんどだけど良い人っぽさがにじみ出ている。

 

 

マルクスの言らしいけど、影響を及ぼすためには影響を与えらないといけないし、愛したのであれば愛が返ってくるものだし、信頼は信頼としか交換できないとか。なるべく場所を取りたくなかった自分としてはちょっと痛いのだけど、祈れなくなったのはこの辺りにあるのではないかという仮説。・

 

意識を意識するというのは「脳は私ではない」で、内的体感は評価が前提だけど、これは自然ではなく操作できるものだとしている。たしかに、内的感覚ってほとんど反射みたいなものだけど、それをどう現実化するかは状況次第だと思う。これは普通のこととして。

 

もっと言うと、自分の内的体感とか思考をどれだけ現実化するかが人生なのかなと思う。

 

何かしたいとか何かが足りないとか好き嫌いとかは言語化するにたやすいのだけど、ここをし過ぎると言葉と自分が癒着するというか、自分自身が変わらなくても言葉を変えれば自分が変わったと思い込めることになる。

 

一種の言葉の機能だろうけど、僕はこういうのは使いたくないな。

 

内的体感を言語で掬うことが意識だとすると、意識できる自分を表現する道具は言葉しかない。好きな人と語用は似ている感じ。

 

で、僕はずっとこういう試みを続けてきてやっと言葉と人格の癒着から離れてきた。人がこう言ったのだからその人はその言葉を貫徹するなんてことはないし、僕も言葉をそういう風には使わなくていい。

 

言葉を大事にしていない人を見るときに大事なのは言葉でなく見える像。

大事にしていないというより、切り離せているかどうかか。

 

こういう文脈で見ると、好きな人がどうしようもなく勝手に好きだなと思われる。勝手に好きだったら祈れたのだけど。

 

 

やれやれ。

 

言葉を扱う為には語彙が必要で、語彙はどれだけ自分の世界の外の言葉を収集したかによる。僕は今日、海容という言葉を収集した。広辞苑的な意味は知らないけど、文脈的には海のような器で許容してくだされという遜った言葉なのだろうなとは推測できる。

 

僕は言葉も世界も全然知らないと断言できる。

こういう意味では自分を保つ必要はなく、立ち位置で人も見ない。

 

認識は更新されるものでしかない。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。