書ききれない

 

 

 

そろそろ穴ぐらから出るか。と、ほぼ満月の月を眺めながら帰る。文字化できる情報が多い1日。

 

 

「他人の中に在る自分を評価するのは自分ではなく相手である」ということを考えながら、カップ麺と梅干ご飯の朝食。ちなみに明日もカップ麺。本日は鴨そばで明日は肉うどん。どうもラーメン派ではないらしい。12時まで二度寝して、5問だけ解いて出発。正直、一瞬迷ったが、こういうところの行動力というのは我ながら凄い。外からの動機付けが全くかかってない行動こそ、素朴な自分の行動力としている。外からの誘導であれば隷属するだけでなんとでもなる。抵抗しつつ従うことに何かやりがいのような価値というかメリットがあるのかもしれないが、僕にはそんな概念はない。

 

日記の醍醐味は時系列通りに書かなくても良いということにある。別にリアルタイムで呟いている訳ではないのだから、1日を思い通りに編集しながら書くことができる。買ってきた2冊のうちの1冊は、刑法(総論)の考え方・楽しみ方という本。刑法自体がどういう学問か法学を全くかじっていない人に説明するのは難しいが、各論はどういった行為が犯罪にあたるかをあくせく理屈付ける学問。素朴な人は犯罪は悪いことだから処罰されて当たり前という認識で問題ないが、国家が個人を罰するためには納得される理由が要る。国家が悪いことだから当たり前だろうってざっくり処罰できるのは独裁でしかない。個人レベルでは感覚的・反射的な独裁で良いが、国家レベルではやってはいけない。

 

で、総論はもっと抽象的な水準の学問で、そもそも何故国家が刑罰権を独占しているかという理由から考えていくもの。細かくなっていくから省略するが、行動心理学からの引用で、人はサンクション(制裁)による行動規制があると、内的動機付けが失われるというフレーズが書きたかっただけ。これを進めていくと、やらされている、やらなければいけない、やった方が良い、みたいな動機って、当人を自身で捉えきれてないのではないかという疑問が生じてくる。僕はこの意味での人の厚意みたいなものは見えてもカウントしないかもしれない。僕が見ているのは、例えば譲る外的動機が一切ないのに譲る挙動とか、当人にとって全く対価がない(と見える)のに挙動する存在。

 

 

さておき。

 

眉毛を整え、髭を剃り、髪をセットしてからスーツをクリーニングに出しつつ、通例のように御堂筋線に乗る前に文庫本を一冊購入して読みながら京阪に乗る。「犬はどこだ」

 

行きはあまり読み進められなかった。景色の方が美味しくて。昨日の自然美と人工美で言うと、僕は景観として整えられた人工美としての桜より、車窓から流れる景色にある花々とか、あ、イタドリ生えてきているわとか、散歩している人は何を考えながら歩いているのだろうと想う方が楽しい。遠くに見える山に点々と見えるピンクはとても愛おしくにまにましてしまった。

 

ふと、移動する物体に乗っているときの思考(意識)はよく回るなと思う。意識は肉体から外在なのか内在なのかという論争があったらしいが、これは自分が歩いている時とも近いと思うと、移動している最中に限りちょっと外在みたいなものなのかもしれない。もう少し現実的というか、科学的に解釈するのであれば、視覚が受け取った画像データを過去のと照合しまくっているからそれにまつわる思考が回る。10回も乗っていないと思うが、ここにはこれがあるって照合できている。

 

過去との照合でいうと、たまたま一番長く過ごした恋人さんのカタチとよく似ている人がいて、ちらちら見てしまった。位置関係でいうと、進行方向に向いた間に通路がある二席ずつの配置で、僕は右端、その人は1列前の左から二番目。何やらスマホをずっといじっていて、どうやら、何かの短めの動画を観ているらしい。その手の小ささがとても近いのと、耳のカタチ。爪は赤かった。僕と住んでいるときも、化粧の動画とか見ていたなぁとか思い出しつつ、いや、ベリーショートの頭のカタチを見ると、当人はもう少し大きかったはず、降りていく歩き方も違う気がすると、完全な一致はできなかった。そもそも関東圏に生息しているだろう当人が、ここに居る筈がないという観念は別れた後のその後を知らないから、可能性としてはありけり。

 

ここでの発見は、まだこの面影は僕を切なくさせるのだろうなということがまず1つ。もともと切なげな心持ちだったというのもあるが。もう1つは、かなり一緒に過ごしていっぱい触ったのに、手のカタチ、耳のカタチが完全一致されるように残っていないということ。まぁ、自分の手の画像が他の99人の同じような手と混在されて、さぁあなたの手はどれだって聞かれても、自分の手は分からないだろうなと思うと、まぁそんなものか。特徴的な黒子とかがあればまだしも、見ているだけのものは残らない。

 

これなら、利き文章の方が精度高い。同じことについて書いた文字数も同じ文章で自分の言葉が他の99人と混在されても自分が書いた文章なら絶対間違わないし、人の文章もある程度読んでいれば分かるはず。では、人の存在とは。

ということを考えながらやっと到着。

 

出町柳からゆっくり南下しようと目論んだ。「同志社」という文字が景色にたくさんあって、ふと、大阪ではなく、京都の大学に入ったら良かったなと思った。でも同志社は中学校時代好きだった女の子が高校も同じで指定校推薦で行ったところだからなぁ、しかし京大に行けるような頭もない。ちなみに僕はこの女の子(今や女性)と地元の飲み会の時になんやかんや接吻をした、させられたというか。その時の発言も頭空っぽみたいなことを言っていたように再現されるのだが、僕が惹かれたのはもっと闇の部分だったような気がする。もうだいぶ遠いので定かではない。今は地元に戻っているようだがどうなのだろう。ちゃんと自分で生きているのかな。

 

頭空っぽは別に悪い意味ではない。社会とか空気に従って人生を決められるということ。なんで駄目だったんだろう。そんな性質を中学生当時に思っていた訳でもない。狭い社会の中ではトップクラスに可愛かったから、思春期ではこんなもの。可愛いの概念は、客観的な可愛さではなく、なんで僕にとって可愛く見えるのかということに変わっている。客観的な可愛さは接したいには連動しない。

 

戻ってきて。

 

芸術会館にご挨拶。中に入るまではしない。そうして目的地に入る。春の顔は盛況で人は多いが、雑多にならないくらいの広さがあってとても楽な場所。ひたすら歩く。ソメイヨシノの煌びやかさを皆見ているが、僕は山桜の渋さが好ましい。四葉のクローバーを探している人、野球をしている少年たち、飲み会。歩いていたら道に迷って、最南端から出るつもりが最北端に辿り着いてしまう。御苑をまるっと徒歩で一周。

 

してみて思ったが、人の空間認識って、自分の移動可能性を前提としているなということ。車とか電車とか今はいっぱい自分を外化する手法はあるが、やはり基本は自分の肉体がどれだけ動けるか。まるっと2時間くらい歩きっぱなしだったが、全然堪えなかった。

 

そうして、鴨川を通って丸善に行ったのだが、人が満載。お酒飲んでなくても酔う。ソーシャルディスタンスは、プライベートディスタンスには適応されないらしが、プライベートの関係のその人もソーシャルで過ごしていると思うのだが。

 

丸善での収穫は、最初に書いていた刑法と、メディア論。原著は即購入というほどに予算と釣り合わなくて、原著の人をかみ砕いた本があったからそちらにした。なかなか美味しいということは後にして。

 

コーランを探しに岩波文庫棚に行ったら、滅茶苦茶呼ばれて困った。一番主張してきたのが「いきの構造」で、これ買ったらダメなやつ。諸子百家の諸々も呼んできて、なんでもあるというのはよろしくないなと思い、この枠はやめにした。ちゃんとした場で選ばれに来いというスタンス。

 

本が呼んでくるという思想は、本は選ぶものだという思想の人には分からない境地だろう。ただ、これって、別に大した違いはなく、基準を意識にするか無意識にするかでしかない、

 

で、メディアの話。

 

メディア論を展開したのはマルクハーンという1人の天才らしい。共有することの充足とか、共有されない不安観から生まれたのがメディアなのかという暫定。自分固有の見解なんて、現実化されないと他の人には分からない。

 

そういえば、表現の自由を保護する根拠に「思想の自由市場」というのがあった。言語で発信された思想が公共空間にあることによって、より良き認識に辿りつくということらしいが、とても胡散臭い。誰しも自分が認められるかどうかで、自分の認識よりより良いものに塗り替えることなんてできない。市場=より良きものが選ばれるみたいな水準には至らないだろうに。

 

読み切った文庫本の話もあったが、どうやらここまで。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。