移ろいを掴む

 

 

時間は一様に移ろう。遅いも早いもない。

心の移ろいには方向が無い。いま判明した過去の事実にほっとするなど。

 

 

仕事はゆるゆると過ごす。馴れたのちに止まる人と、さらに進む人の違いはどこにあるのだろう。もっと遊んだら良いのに。というやや自戒。自分で問題を思い付くくらい遊べるようにならねば。

 

年末に呑みに誘ってくれた上司と、いつ行けるようになるだろうなぁという雑談。僕は別にいつでも行けるが、世間体大事。なんとなく深みを感じて好ましい人。変に全体に気遣いがあるような。基本的に緩いが、きっと厳しくもできるんやろなとか。お互いの地元を航空写真で探すなどしていた。しかし、我が実家、ほんと山奥だ。母校の中学校が廃校になって、いつのまにか通っていた小学校が中学校になっていた。たしかに僕が通っている頃に校舎も講堂も建て替わったから比較的には新しいのか(うん十年前)。徒歩で通っている児童ほとんど居なさそうだが。

 

晩御飯は作らんday。ヒラメのお刺身と唐揚げとベビーリーフ。ついでに菜の花が食べたくなって、菜の花のペペロンチーノなるものを買ってきた。特有の苦みが飛んでしまっていて菜の花を食べている感じはないが気分は味わえる。

 

この連休、世間は汲々としていそうだが、僕は何処かに行くような感じがある。徒歩圏内の散髪には行くとして、電車圏内でお花を見に行くのか、新幹線圏内で何処かに行くのか。今日航空写真を眺めているとき、熱田神宮が出てきて、いずれ行くつもりなら何時行っても良いのかとか、東京の演劇も気になる。ただ、これは演劇自体もあるが、むしろ今度は受付に居るかもしれない人に会いたい気持ちの方が強く、なんだか不純だなって。不純でも行きたいのであれば行けばいいし、自分を決めないことにする。あとは風まかせ。

 

 

時間の一様性にも慣れてきた。あくまで個人的な感覚譚。

 

時間が早く流れるとか遅いとかいうのは世界の移ろいに対して意識している間隔の違いであって、移ろいは常に動いている。この移ろいの基準を、「時間」という体温計や血圧計みたいに計測した時にしか観測されないものとはしないで、常に移ろいを意識して移ろいと共に生きること。この手法は、エゴとか人格といった、意識で観測した時にしか自分が在らないという隔たりもなくせる。

 

移ろいがそのもので自分だから、あえて自分である必要はとんと無くなるし、出来事ベースで存在が浮き沈みすることもない。張り巡らして生きているところに他人の否定的評価が入り込む余地はない。ここからすれば、時間を「潰す」という感覚は思いの外。もったいないお化けが出てくる。

 

まぁ、でも人生の刹那の時間をどう過ごすかについてはまごうことなく自分にしか決定できない自由だから、それぞれのその人の存在で良き。

 

 

ふと、素朴な疑問。

 

個人的に人には言わないだけで自分の中に宇宙があって独自の精神世界が構築されていると思っている。いた。他人と共有できることはほとんどないから脆弱だが、世界に対してどういう態度であるのかには、この内的世界観が不可欠なのではと誰にも教えられないところで感じていた。

 

いま、世界観が構築されるまで内省できる人って実はマイノリティなのかという発想が起こる。五感で感得できる物理ないし、共有できる社会的感覚的世界が客観的な世界であれば、自我はそれに対する反応によって形成されている訳で、外から離れたただの自分の世界を構築する余地はない。

 

こういう世界だと自分のことは常に出来事ベースで語られる。

 

この発想が起こったのは、大学の時に友人と飲んでいて、「お前には軸がある」と言われたことがあるなぁ、軸とは、から繋がった。ずっと気になっていたフレーズ。僕は影響を受けるし、自分の行動も相手に合わせるし、確固とした城塞みたいな自分はないのに、何をもってこの人はそう評したのだろうって。

 

自分の中の世界を探索するというのは外の認識がどうなるかに連動されているもので、自分を都合よく存在させることではない。自在だからそういうこともできるのだろうが、少なくとも僕はしない。

 

自分だけのものはこの世界にはあり余っている。

 

内省するものさしですら外から持ってこられると当人はいやいやするだろうな。それが怒りだったり無気力だったりとして反発される。なんだか、自分で居ることにすら慣れていないのがほとんどの人なのではという発想すら起こる。癇癪って甘えだし、ご褒美、いや、やめとこう。

 

すっきりし過ぎている。

 

内側にきちんと自分の世界が在る人はあんまり居ないとしよう。

言わないのではなく、もともと無い。

 

なるほど、宵顔さんが好きな意味も分かってきた。

 

 

やれやれ。

 

泉鏡花さんの文体、あんまり情景が起こってこないのに、字面だけでなんだか泣けてくる。意味がワカラナイ。

 

「時間の終わりまで」と「計算する生命」も同時に終わってしまった。二周目は注釈込みで読む。本が外の情報でしかないというのは外からのものさしであって、僕の世界では体感として読まれるもの。自分も一時だし、縁も一時で、ずっとあるものではない。それでも離れがたいのが生身の感情。

 

法律学でもふと思いつくことがあった。

 

民法って一般市民のルールだが、その前に形成されている不文の規範があって、この不文を前提としてやっていくと紛争が起こりうるからそこをなんとなく言語で規定しているということなのだろうなと思った。細分化しないといけないことは高次になった訳ではなく、人が機械的になっている。

 

ルールは大事だが、ルールに従順になるのは人間的ではなさそうな。

物理的な時間的な移ろいから解き離れる意識があるのに、

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

もっと楽しんで生きられますように。