振り返り

 

 

 

小学校の同級生3人と海外旅行に行く夢を見た。同学年の合計8人のうちの男全員。日本風の田舎の風景の中に屋台とか学校とかがあり看板がついているのだけど、日本語でも外国語でもないカラフルな記号が並ぶ。この3人の名前は同級生なのだけど、中身は僕が接してきた人たちの人格の類型の集合体みたいだった。いつの間にか中学校の同級生になっていたり大学の同級生になっていたり。景色も集合体みたいなものだったのか。夜は何かのカードゲームをしていたのだが、現実の資産が反映しているらしく、僕はカードは早々に尽きて、もう帰ると言って外に出ていた。

 

僕の頭の中に世界は抽象的に収納されているらしい。

 

起床予定時間より1時間前に目覚め、演劇の後の質疑応答の時の発言について考える。

 

我ながら良いフレーズだなと思ったのは、「制作の過程の記録は建築現場の連続写真(今思うと定点カメラの方が適切)みたいで面白く、時折出てくる素の人格は味があって、とてもファンです」。昨日の日記で脳内言語が全て可視化されるのであれば生活言語と思考言語と云々というのがあったけど、現実世界における発話って考える前に発しているから出てこないと訂正。まぁスピーチはちょっと違うのかもしれないが、あまりやったことないからな。経験としては20代の頃に小学校の同級生の結婚式のスピーチをしたことくらいか。文面準備して朗読するだけだったが。

 

 

ちゃんと起きて活動していると自分と世界の間にある膜がまた1枚剥がれた気がした。世界がちょっと違う。

 

さておき。

 

ふと、自分が書いていた前のブログを確認すると、アクセス数が100と144あった日があってびっくり。どういう風にカウントされているのかは知らないけど、一気にこの数の人が見に来たというよりは、中身はもっと少数で一気読みした人が居る方がまだしっくりくる。何かワード検索でひっかかったのがあったようだけど、パーセンテージとしては低いから除外して。

 

その1。僕の文体を知っている人がたまたま発見して読み込んだという想定。ありうる。何人か具体的な個人が浮かぶ。その2。たまたま僕の文体を発見してある程度読んだ。なかなか想定しがたいけど、世の中には奇特な人が存在するから0とも言えない。その3。好きな人が僕を読み返した。そんなことするほど暇なんかなとか、僕の文体に対する好感が読めることがないというところからするとさらに在りえないと考えるのだけど、辿った記事を見るに、可能性としてはあっても良い。

 

(その3を前提に)自己紹介書いてなくてすみません。事務情報書いてなくても読んでいればある程度は開示されているだろうという怠慢です。4つ年上、おっと。まぁ西暦何年生まれで何処の出自でどうこうしてみたいなことは別に書いても書かなくても良いことだから書いてないだけで、特に匿名性に隠れている訳でもない。

 

ついでに、自分の昔の日記をいくつか読み返してみたけど読み物としてはあちらの方が美味しいのではと読めた。ちゃんとまとまっているし読み手が意識されている。ただ、なんというか無味無臭な感じがする。この人は何を大事にしているのかという人格の背景がさっぱり読めない。思考と事実が等価というか。

 

文体はあまり変わっていないけど、こっちはもっと穴倉の中だから語句検索に引っかからないように固有名詞はぼやかしているし、断片的だわメタ的だわで読みにくいはず。知らんけど。僕は純粋に自分の文章の読み手にはなれないから一生永遠に分からないこと。

 

歩いている最中にはアイデアが浮かぶもの。今日は「日記は当人の事実である必要ないな」ということを考えていた。架空の日記の小説を見たという鍋からなのかな、よく分からない。

 

そもそも自分が書かされていた日記を考えたとき、夏休みの絵日記は最終日間近で日記帳を埋める作業だったところからすると、公開する日記って事実ではなく事実らしく整っていればそれでいいんよね。読み手も内容が本当かどうかは問題にしていなくて、美味しいかどうか。

 

言葉の装飾性というか余所行きの服感というか。

 

良く見せたくなる心情も分かるし、これが言葉の稼働域だと思うけど、あまり自分とずれた言葉を遣っていると言葉から逆襲されそうな気がするから、ちゃんと分けた方が良いと思う。

 

僕の言葉の扱い方は見ての通り。書かないこともあるけど、書いたことは嘘ではない。ある意味言葉の操作性を縛る行為だけど、言葉を読むだけの人が僕に興味を持つことはないだろうから問題ない。

 

そういえば、「朗読者」読み終えてしまった。世界中を感動させたって裏表紙に書かれていたけど涙という感動ではないのだろうな。僕が気になったのはやはり某森との共通性で、わりとメタ的な人が出てくるところ。主人公の時系列の多層性というか。たしかに人って肉体は1つでもいっぱい居る。あの時の自分が考えたことを独立とした人格として尊重するみたいな。

 

次はどうしようか。書庫から宝島がアピールしてくる。

 

古典は全般1通り攫うつもり。エドガー・アラン・ポーさんは抽象画みたいな物語だ。プルーストさんは思考のラフ画ちっく。トルストイも試してみたい。

 

「争い」について。

 

闘争心がないという評価だったけど昨日の日記を書いたあとに、自分の中では常に闘争があるだろうなと思い付く。

 

何かをするということは何かをしなかったとセットだし、自分の中の諸々の基準ないし欲求が無矛盾で統一されることのほうが少ないのではないか。「脳は私ではない」で、精神の状態が宇宙の自然法則に左右することはないという学説があるという話があった。自分が選択したと思って現実化したことは、体とか脳のメカニズムが自然に導出した作用でしかなく、内心は世界を変化させないとか。

 

僕は、いや、それはないだし、作者さんもそれはないという説。世界は物理学で成り立つような単純なものではないし、人は世界の物理作用だけを感知している訳でもないし、人が人に発するメッセージは物理で分かるものだけではないし。

 

車はガソリンで稼働できるし冷蔵庫は電気で冷やすけど、人はご飯を食べても活動的に稼働できるとは限らないから、自然法則の外にある(ものもある)。

 

どうでも良い最後だけど、僕には舞台の概念がないのかもしれない。

 

舞台という装置があるためには観測者がいないといけないけど、その観測者もそれぞれ個人なのだとすると、舞台に上がるためには非人格でないといけないし、ややこしくなりそうなので省略。

 

おやすみなさい。