連動

 

 

無関係な関係、虚言と戯言、よく見ないと分からない程半径が広い月虹。見つからないマルクス

 

さておき。

 

仕事中にトイレに行ったときふと思ったのだけど、図書館のサービスって電子データにできないのだろうか。そうすると媒体としての物は劣化しないし。ただ、貸し出す意味もなくなる。提供を制限する前提たる本という資源の希少性がないため。さらにもう少し現実的に著作権との調整を加味すると、試し読みみたいに2週間でその電子データが読めなくなるというように技術的に設定できれば普通の貸出とあまり変わらない。2週間ごとに認証を受ける不便さが嫌なら本かデータを購入すれば良い。ここまでくるとほんとに現実にありそうだ。

 

(どうでも良いけど、僕の文章に倒置法が多いのは、頭の中の言語化の順番がそうなっているからだろうな)

 

昨日は夢を見る前に、もっと夢のような妄想が繰り広げられていた。「この枕痛くないですか?」「苦しかったら離れて良いですよ、ただ、顔は上げないな下さい。自制が略」みたいな。この妄想の中で登場人物が僕に都合の良い言葉を吐くことはなく、ただの状況であって、純粋な妄想だったらもっと散らかしても良いとは思う。散らかしてなくてもとても良かったが。

 

この未来に起こらないだろう状況を考えることはあまりしないが、浮かぶときって、おそらく、「考えたことは起らない」というジンクスと共通項がある。ほんとうに起こりそうなことは考える前に行動しているというと前向きに捉えても良いかもしれないが、自分に目的意識が欠けているのはこの辺りにありそう。未来のあるべき自分の姿から逆算して今することを決めるということができない。

 

できないから、本当にありそうなことは考えないようにする無意識。だから、だいたい思考の死角が現実化する。祈りとか願いの対象が自分に向かわないのもコレ。例えば演劇の質疑応答のシーンは、僕が手を上げればその時の自分が勝手にやるだろうし起こるだろうことだから、もう準備的な思考はしていない。どうせ前もって準備した言葉は言わないし。

 

という自分の変則性になれてきた今日この頃。昨日の自分史を読んで思ったけど、僕は「自分がない」とずっと思ってきたけど、そうではなく、世界に対して守りたい対象としての自分が居ないということなのだろうな。たぶん、人って、英雄譚ならともかく自分のトラウマとか弱点になりそうなエピソードって語らなくて、大事な人の為に取っておくはず。この柔らかい傷付きやすい自分を自己観の根っことして捉えているのではないかと想像できる。

 

そういうやり方の人達に囲まれた環境だったから、変なことになったのだろうな。僕は自分の全部を語ることができたとして実際にそうなっても、何かが取られた感じはしない。配ったという感はある。むしろ、この何年かで開示しまくったことで、むしろ軽くなった。自分の操作性がわかって来たというか。

 

今度は、思想史というか哲学史

 

「自分がない」という違和感があった思春期。思春期で通り過ぎるのが一般的だろうけど、何か外に向けて主張するような自分は未だに見当たらない。ただ、良い大人なのでもう少し擬態すべきとは思う。

 

ともあれ。

 

今は言語化できるけど、ずっと、人が無根拠に当たり前とできることに違和感があったのだと思う。その普通ではない感覚を収集できたのが小説だった。大学時代の友人にお前の考え方は中庸というのだろうなと評されたけど、今思うと、そういう対立はどうでも良かったのだとだと思われる。

 

人間で最初に気になったのは、言葉。というか、言葉の自意識の乖離よな。

 

この辺りが20代半ばくらいで、言葉は箱であるという思想が生じた。中に込めた意図というより、箱自体が問題であとはどうラッピングするか。言葉のカタチとか文体にはずっと興味があったけど、言葉とはなんなのだろうってずっと鍋があった。

 

あと、人を分かるということも、ずっとよく分からなかった。これは人間関係自体が癒着であって、ちゃんと分けられていなかったのだと思う。他人は自分を搾取するものだというか、つけ入るものだと観念も成人以降。中庸だと評した友人、自分は実家通いで僕が住んでいたところが大学に近いからというだけで、連続何日入り浸ったか。限界を越えた時断った。今ならもっと早く断れるが、なんというか、争いが尽きないのも分かる。

 

その後の人間関係も、僕が飲み会を断らないことでより自分がしんどくなる。関係しんどい。たぶん、普通の価値観として嫌なら嫌と言えるのが当たり前なのだろうが、今程自分の時間が確立している訳ではなかったから、ほいほい野郎だった。でも、別にその人達が悪い人達だったという訳ではなく、僕が足りなかったというだけ。まぁ今からやり直してもたぶん行かない。

 

こういう集団関係では醤油みたいな存在で生きていた。いや、味の素とかソースか。特に存在感はないが、変な意味でマスコットみたいな。

 

これとは別に、個人的関係では、僕は相手を都合の良いようにコントロールしているのではないかという違和感があった。コントロールし切れずすぐフラれるのだけど、この辺りから人の心理への関心が生まれる。学問としての心理学というよりは在野的なもの。眺めていれば人がどう意図しているか、何を僕に求めているかみたいなことはだいたい見えてくる気がする。心理は僕が見たその人の話だから個別的なもの。交換可能性があるのが駄目だったのかもしれない。比較で見られるのであればこっちも比較で見るしかない。

 

実際に心理学を読んだのは随分先だったけど、ここでいう心理は統計的なものだった。入り浸った友人が経済学は統計だから信用できないと言っていたのを思い出す。ただ、一般的な人の傾向を知りたいのであれば、こういう視点は大事だと思う。ただ、人の傾向の中でどこまで定量的に測ることができるのかというのは難しいところ。

 

で、具体的な人を分かるためには具体的に人と接するしかないけど、実際に接して分かるのはあくまで具体的な個人だから、それを一般化できると考えるのは誤謬な気がする。どれだけ広く接したとしてもこの意味では統計に勝てない。

 

世界線というか、自分が関係できる人は自分と精神レベルが似ている人だ。でないと続かない。とすれば、似たもの同士、価値観の前提が共通している中の集団における人の中の個体差っていかほどなのだろう。

 

個人的に統計って主観的な統計っぽくて嫌だった。統計的経験則を語るのって、人を個別的に見ていないなって。でも、そろそろ手を出す頃合いかもしれない。一般論的な世界を把握するために。

 

個別的に見れば、好きな人は僕の統計的経験則のどれにも当てはまらないし、どこにも類型化されない。

 

 

昨日の日記で、人間観が世界で更新されるだろうと書いたけど、これは、別に世界の研究結果とかではなく、僕個人の中でも更新されているのだから世界でそうならないということは在りえないというもちろん解釈。

 

肉体に付随した言動が人間である、あるいは精神も人間であるでも良いけれど、「脳は私ではない」の意識論を読んでいると、人間の存在とは個人レベルで見てもよく分からない。

 

社会レベルでみた存在は法律が規定しているからまぁまぁ分かってきた。人の行為には動機とか認識があるというはとても人間が分かりやすくて、ある意味物理で把握できるからだと思う。

 

でも、なんでそれをしたのか自分で分からない領域の方が人っぽくないか。

で、この意図なき理由なき領域は無意識だったりセミオートだったりするけど、少なくも意志はない。

 

意志がある人間関係って、相手は人ではなく世界の一部っぽい。

 

要は、ほんとうの個人を規定しているものは、何かの理由付けではないよなという人間観が今。社会という世界の中でそうせざるを得ないというのは当然あるけど、だからと言って、切り離せるものでもない。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。