正直

 

 

 

洗濯機と頭をぐるぐる回す。

 

 

ノルウェイの森が終わって、海辺のカフカの読み返しに入った。下巻はすぐ見つかったのだが、上巻がなかなか見つからず、自分が今まで読んだ本と読まずに埋もれている本が氾濫する。「人間嫌い」って買っていたのだった、「我はロボット」読んだ、読んだ。村上作品もたくさんあるし、谷崎潤一郎とか吉行淳之介とか。「吾輩は猫である」はまだ読んでない。

 

読み返したくなる本も読みたい本もたくさんあった。

 

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」とキルケゴールの「死に至る病」は2周目に入った。1周ではよく分からない。「存在と自由」も待っている。

 

 

ナカタさんという単語が出てきて読み返すことにした海辺のカフカは村上作品の中でも思い入れがある。大学時代ちょくちょく愛媛に帰省していて、高速バスの車窓から流れる景色をつまみによく読んでいた。星野青年、カーネルサンダース、ひっくり返さないといけない石。カラスが啄むシーンがグロテスクだったイメージ。村上作品ってだいたい現実と非現実の境界が曖昧になる。

 

そういえば、この話のカフカ少年の宿命みたいな部分って、昨日書いたパイプドリームとも繋がるのか。とはいえ、僕の人生という管のイメージは、決まっているのは方向性とか傾向くらいでしかなく、意識に操作性を含意しているから自由とも両立するという良いとこ取りなのだが。注意が拡がっていれば方向転換の機会にも気付ける。演者のアドリブ。

 

 

さておき。

 

頭をぐるぐるさせていると、自分の移ろいが鮮やかに引き出される。情報量が多くなるとなおさらだから、徐々に馴らさないとなと想う。色んな可能性が想起されてしまうし、そこに影響を受けそうになる。ここの想起に良いも悪いもない。

 

移ろいの鮮やかな引き出され=記憶とされるものだが、この話が通じた人、1人しか居ない。当人曰く当たり前だろうということだった。やっぱりそうだよな。何かだけに領域を絞ってインプット・アウトプットが行われるはずがない。僕とその人が不器用なだけという説もある。

 

何かを残していることが、大事とされるのはそれがしんどいこととされているからだと思われる。僕なら大事な人にしんどいことさせたくないけど、という素朴な感覚。まぁ、覚えられていることが存在の認定になるというのは分かる。テストだって覚えていれば点は取れるし、誕生日を覚えていると嬉しがられるし。

 

こういう意味である意味欠陥人間なのだが、人間は事務情報でできている訳ではないとしているから、もっと深みの経験則で判断できない当人を読もうとしている模様。この「感じ」で人を捉えようとしたら、交友関係はどうあっても広くできない。キャパオーバー。やろうとすればできるのだろうが、時間がいくらあっても足りなくなる。

 

こういうところ繋がりかどうかわからないが、僕には他人に好かれることに対して一種の恐怖症がある。好かれることは良いことだ、何を贅沢なという反感を買いそうだが、この好感には、便利だ、都合が良い、害がないみたいな対人間ではない感じがあった。基本的に怒らないし、合わせるし人間味がないとも言える。

 

恋愛関係的な意味で言っても、市場価値というか、交換的観念が否めない。こちらだと相手が恋愛対象に設定されたハードルというか枠があり、枠があると反発、いや遠慮してしまうから上手くいかない。ここは考え過ぎだったというか考えなさ過ぎだったとも言える。

 

別にここらの自分が自分で無かったとは言わない。バランスが取れてなかっただけ。

 

ただ、ちっとも人から好かれたいと思わなくなったのはここにある。

もともと好かれようとして動いている訳でもないし。今日流していたBGMで「自分の好きを返して」というフレーズがあったが、好感は交換するものではなく、返ってくることを求めるものでもないという素朴。この素朴を相対的交換観に引き直そうとするから混線した。

 

交換の観念は外で行われること。社会人類学の「結婚」の概念が面白い。世界的に見れば女性が低い位置に在るなんてことはなく、ある民族では女性が戸主で、結婚する為には男性側が財産を提供するという風習もあるとか。人類学は素朴な社会観が限られたものでしかないという視野が拡がる。

 

視野と言えば、次の本は、おそらく統計学なのだろうなという感じ。数学世界の捉え方が面白くて。おそらく経験則的一般論よりは統計学的に捉えた方が一般論としては正なのだろうなという。それを用いて人にマウントを取るみたいな動機は全くなく、この地球を満喫するため。この時点にある見地をできるだけ採り入れたい。

 

と考えていくと、やっぱり、一般論としての「現実」って、幸せと同じような当人が現実と想えばそうとできるような集合的な仮象なのではという感じになる。

 

統計学が最強の学問である(数学編)」で、数学は抽象化して物事を分かり易くすることで「現実」の制約から離れることができるというフレーズがあって、なるほど、現実は生の現象界なのだろうなとなるのだが、これの制約ってやっぱり今っぽくここっぽい時空を現実とすることよなと。

 

五感から採り入れる情報すら人が現実としている境界からはみ出している。

 

僕は現実感というものを既定とすることは無くなったが、それでも見ての通り毎日の生をきちんと謳歌しております。「楽しむ」って楽しめないことがあってそれとは別の領域での感得みたいな一般論っぽいが、僕のはそういう反作用は無い。

 

よくもまぁこんなの書いたな。

普通の会話で話したら絶対反論されるというか、現実感に引っ張り込まれる。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。