よなよな

 

 

 

 

時々起こる感覚に陥った本日。仕事の日の火曜日か水曜日をすっ飛ばしてしまって、木曜日にまだ水曜日だと思ってしまう。ここでいう「まだ」も意味的には無色だが、何かもったいない気分になる。「恐怖」、「この先」、「変数」とここ三日で書いた日記を辿り、作ったご飯を並べてやっとどこにも空白の1日がなかったことを確認できる。

 

まぁ、時間を客観で眺めないのであれば当たり前の話かと思う。だれに通じるかは知らないけれど。別に無為な1日を過ごしても良い。1日という時間の区切りはあくまでも便宜的な共通項でしかなく、1日が物として存在している訳でもなく。

 

仕事の終わり際に先生と内心で読んでいる上司が、教育談義をしていた。学校でお勉強したことは役に立たないと巷では言うが、歴史観とか数学的素養は役に立っているのだという話。たしかにアインシュタインさんが言うところの「常識とは18歳までに習得した偏見のコレクション」の中には、学校でそれとなく「正しい」と教えられた世界観も含まれている。

 

会計学、いや、財務会計論の本で、日本人は自然と引き算ができるが、外国ではそんなことがないという話もある。シンメトリーを美とする文化が複式簿記を作ったというのも素朴に面白い。

 

とか言って、僕は理系の学問についてはほんと弱っちぃ。三角関数は距離を測るもので、ベクトルとか行列は情報を整理して集約するみたいな意味なのかなぁという感じは読めてきたが、微分の関数の接線を求めることが何故関数の面積を求める積分と対応関係にあるのかがちっとも読めてこない。数学の領域は普通の生活的な世界観ではない法則で成り立っているというとこは読めてきている。基準が違うのだから、現実に引き付けようとしても上手くいかない。

 

であるなら、統計学とか物理学とかどうなのだということになるが、個人的に解釈すると人間の認識が世界の成り立ちを整合的に解釈できるというだけなのではという感じ。ここを感覚したのは、「統計学は最強の学問である 数学編」で、情報の距離を三平方の定理で測るところ。情報は物体ではないのに、距離が測れる不思議。

 

僕は読んで分かる通りゆるゆるの世界観だが、怠惰でもないしある程度の常識は弁えている(はず)。その上で、個人の領域における世界の知覚はかなり任意的でしかないとしか解釈できない。科学の方法論はデータを集積して偏見で捉えないということで「客観」を捉えるようにあくせくしているみたい。人類にこの機能がなければ発展はなかったと思う。素晴らしい。ただ、あくまで科学だって人間の一部でしかないような気もする。

 

一部だから大事ではないとはならない。立ち読みした本で、根本の選択として唯物論か精神論かがあるみたいなことがあったが、いや、どちらも大事だろうという気しかしない。あんまり読んでいないから定かではないが、どちらかというと、唯物論は物を大事に捉えるというより、常識論みたいなことの模様。

 

唯物論を文字通りに捉えれば、自然物を美しいと思わない意味が分からないし。大学時代一番語らったと思われる人が、川の流れとか自然についてなんとも思わないと言っていたのを想い出した。こういう世界観って唯物論ではなくて、人間が常識として大事だとしているものしか大事にできないという意味で、唯人論と言えるのでは。哲学用語でこれがあるかどうかは知らない。

 

理系が弱っちぃと言ったが、かといって文系が強いと言われると、きっとそうでもない。法学はまぁまぁやったが、あくまでルールだから、ある時点では知識を持っているとしか言えなくて、法律が変われば判断基準そのものが変動するから、絶対的な強さにはならない。まぁ新しい法律ができたときに初見よりはきちんと読めるようにはなっているかもというくらい。法律の試みって結構無茶なこと。言葉と強制力(暴力)で人の秩序を形成するのは結構な無理ゲーな気が。

 

だって、言葉に力があるとしているとしている人はルールにあんまり縛られていないし、強制として言葉を扱わない。僕はいまのところ親になる世界線はないのだが、言葉は指示語が本質じゃないよって教えたらどういう人格が形成されるのだろうというのはちょっと気になるところ。指示語としても表現としても言葉を扱えていない人が普通。いや、上から目線ではないですが、指示語なら指示した意味を説得するのが普通だし、表現なら相手にどう捉えられるかは相手に任すものだし。僕の素朴は指示語として言葉を扱うことはないが、教育領域になればするとは思う。

 

そういえば、どうでも良い、僕のここの名前である「硯」の語源について。この日記でもなくエッセーでもなさそうな文章のモデルは「徒然草」からきている。割とモデルにしている人は多そうなイメージだが、僕は「つれづれ」より、「硯に向かいて」のフレーズに惹かれた。間に暇に任せてみたいなところもあった気がする。徒然(うごうご)しているのは普通のことだが、その暇に何をするかという話。あと、この漢字のフォルムが好き。

 

 

学校の毛筆の授業はかなり苦手だった印象。基本的に不器用だから、全然綺麗に文字が書けない(今も)。いまなら毛筆を試行錯誤することもできるが、この時はお手本が正だし、墨汁が飛び散って来るし。雑巾を絞るときにも飛び散る。

 

それは良いとして。

 

結局世界ってなんなのだろうな。

 

僕の世界観だと、内部は結局任意だから、辛いのはそういう風に決めていると思っておる。僕は母親から投資されたことに返せ返せという不文律を感じるのだが、義務でないところで決めたことを他責にしているのはなんか変な感じがする。

 

したくてしたのであれば、対価は無関係なはずなのに。ここが関係におけるまどろみなのだろうな。

 

何かが返ってこないと関係(人間)でないとすれば、自分(人)はどこに存在しているのだろうって。

 

 

個人的に対人関係の中でどこまで自由にするのかはまぁまぁ気になっているところ。

 

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢を。