物語的人生

 

 

「つかぬ事をお伺いしますが。」

 

ラテン語があるかとブックオフの語学の棚を見ていると反対側から一言。一瞬僕に言っているのではなく店員さんが死角に居るのかと思ったが、そんなことはなく、僕に向けた言葉であった。何が聞かれると思ったら、アメリカの都市の位置関係。答えられず、調べようかと端末を手に取ると、「そんなことするなら、自分でするので。お勤めしてはる人だからすぐ分かると思った。」とのこと。いや、調べるくらい一瞬ではないかと思いつつ、すみませんと言ってそこから離れる。店内を1周回って結局統計学はあったがラテン語はなく、いったんリブロに行ってみるかと外に向かったら、僕に問いかけた人は、まだ同じところで立ちっぱなしだった。

 

何故調べないのかという疑問は度外視して、全然興味も食欲も沸かない領域とはいえたしかに一般教養レベルのことだとは思った。せっかく分かると思って聞いてくれたのに、自分の無知が悔しく悲しい。別に申し訳なくはならないが。だって、答えなきゃならない義理はない。聞くというのは最終手段ではないかという持論。たしかに聞かないと認識できない事柄もある。

 

リブロに行って狩ったところ、統計学は「仕事で使える」という枕詞がついた入門書にした。客観的な学問かと思っていたけど、どうやらデータのどこを取るかというところに人のオリジナルがありそうな気がする。分かり易い。複数回答のアンケートを円グラフにしてはいけないって当たり前ではと思ったが。おそらく3周くらいはするかな。外国語はラテン語がなく迷ったけど、もっと昔っぽい、「初級古代ギリシャ語文法」というのがあり、何かの縁かと思って購入。自分の無知のエピソードのせいで浮足立っていた可能性もなくもない。でも、アルファベットがアルファ、ベータ、ガンマ、、、、という割と音としてはよく知ったものだったし、プラトンとかからと思うとなかなか楽しい。小文字のカタチは完全に意味不明な記号だ。歯ごたえがありそう。英単語は分からないけど馴染みが無駄にあって、まっさらに収集できない。

 

基本的に自分だけで完結することに関しては「言葉」はすみやかに現実にするという自分ルールに慣れてきたかな。

 

さておき。

 

夢には、親戚一同が出てきて皆ご飯食べていたとか諸々あるけど、冒頭文が長くなったので省略。

 

恥ずかしさと近さってなんだろうな。客観的にはなんのことない他人だろうに。恥の中身も、別にやらかしたとか晒したみたいなところではないような気がする。読むのもやや恥ずかしくなっているし。ここは考え中。

 

好きな人の呼び名がこれだと適切ではないから新たな命名を考えていた。個人的には本名と同じ音のあだ名以外にはないのだが、これは僕だけのもの。僕の立場から見れば、好きな人でも問題ない。ただ、度外視して相手の立場的にどうなのだと考えると、行動規範が謎過ぎる。謎の人で良いのではと思う。安直だが。

 

フロムさんの「愛するということ」の中で、愛に至るためには、自分のナルシズムを克服して自分の立場を度外視した相手の立場から考えることだという1説がある。なんというか、僕はナチュラルに人をそういう風に読むようになっている。愛かどうか知らないけど、自分に無関係な人でも人であるし、その人の歴史と経験があるから、僕の基準で考えられないのは当たり前よなと。だから自分の基準で他人を捉えて、こうあるべきだみたいなことをいう人とか、与えたのだから返せよみたいな規範の人が苦手。もっと無関係にしたいことをすれば良いし、したくないことはしなくて良い。ただし法の枠の中で。だから、条件付けられていない人の現実化に目が行く。

 

謎の人の立場で考えたとき、どうあっても通常の現実化ルールが適用されていなくて、その中身もきっと一生解明されない。だから謎過ぎる。かろうじて考えられるのは、単に僕の文体に興味があって、他に何の理由もないだけど、いやいやとなる。これと僕の好意は連動していないが。僕の中にこんな謎の好意があったのかとびっくりしているのはたしか。何かしらの親和性はあるのだろうな。

 

なにせ、ここ3年くらい毎日この人の文章を読み続けている。読んだからといって何か可能性的な物語があるとかなんてなく純粋に読みたいだけ。最新の制作日誌はとても柔らかく感じた。文体がどういった味わいなのかを表現するならば、、思い付いた言葉がとても恥ずかしいやつだったのでやめておこう。僕の好意の根っこだったわ。

 

ところで、「知っていること」の続き。知っていることは伝達という形式で「分かち合える」ものらしい。「私」と「分かち合える私」と「分かち合えない私ではないもの」があるとのこと。これはとても分かるけど、ちょっと疑問がある。「分かち合える私」はほんとうに「私」に含んで良いものなのか。知っていることを伝達し合うことは大事だろうし、言語の機能だろう。ただ、伝達できるものは自分以外でも知っていることよなと。この説でも固有の経験は「私」に含まれている。中間領域をどう捉えるかだけど、僕は伝達された他人を「人」とは捉えていない。

 

僕の日記の書き方として、「伝達」を含めるようなことはしなくなった。「伝達」しようと思ったら相手の素朴な語彙も把握しないといけないし、相手の経験も読まないといけない。まぁこれってある程度共同生活すれば見えてくるから、皆普通にやっていると思う。

 

ただ、誰が読むかも分からないところで「伝達」できると思えることって凄い。これって自分の語彙と経験が言葉を媒介にしたら共通項にできるというファンタジー。かろうじて「記述」ではないかという立場。伝播とか共鳴とかなら分かるけど、こうなってくると文豪レベルだろうな。

 

「こころ」の先生が、自分のことを倫理的にくらいと言っていることとか、主人公に遺言として自分語りするとか、やたらと親和性がある。高校の時はなんとも思っていなかったけど。

 

そう、僕は割と創作的人物にも自分の立場を度外視して考えてしまう。森さんの小説は時々当人がエッセイみたいに登場するのが面白い。でも、ヒロインは不愛想だけどかわえぇ。時々デレる。

 

なんの話をしているのだ。

 

人の芯はどこにあるかと考えてみたとき、おそらく滅茶苦茶柔らかい存在なのだろうなと思う。自分認識における「私」の固さはそれを守るための外殻なのでは。

 

謎の人を放っておけないのもこの辺り。

上から目線とかではないし、おそらく家庭史的に大丈夫とは思うし。だけど、何かが足りていない。寂しいとかでもなく。こんなこと言われたら通常では防衛本能的に拒否反応が起こるはず。僕としてはいつ拒否反応が起こっても仕方がないことをいっぱい発信しているはずだから特に気にならない。

 

 

どうでも良いけど、僕の中の誰にも見せない行動規範を言語化したのは信号の件が初めてかもしれない。いや、書いたことあったもしれない。もっと言語化していない自分ルールがあるのだろうな。

 

自分のことを知らないから、他人のことも知らないとできる。

 

おしまい。