補充

 

 

だんだんと日が長くなる。お月様は見かけなかった。ふと、今まで何回月を見ただろうと考える。概算30年として、365×30で、300×30(9000)+60×30(1800)+5×30(150)=10950と暗算し、月齢を考えると合計は10000くらいか(てきとー)。ここ30年の平均天候データがあればもう少し絞れるけどと思いつつ、しかし、そもそも1000回いっているかが微妙だなと。

 

月を意識的に見るようになったのはここ2年くらいの生活が割と安定してきてからで、田舎で過ごした18年のうち幼少期を除いて15年くらいの方が何かに遮られて見られないということはなかった。ただ、あまりに景色の1部だし、無意識的に何回見上げたかが分からない。無意識も含めればおそらく1000回は越えているが、おそらく2000まではいっていないはず。まぁ回数なんて問題ではないし検証しようもないといえばそうなのだが、ふと気になったことに暫定的でも概算できるようになることは自分の内側だけだとしても大事。

 

どうでも良いけど、ラルクアンシエルヴィジュアル系なのだろうか。

 

さておき。

 

本日目が覚めたら、日記がまた更新されていて、昨日の通信と同じような単語が見つかり「こわ」と思ったのだが、よくよく考えれば何のこともない、覚えてないけどおそらく寝る前に1周しただけだ。しかし、なんであのようなフレーズになったかは不明。自分を消費せずに相手の中に残ることはとても省エネ的な嬉しさだろうし、僕もそれで良いということか。2度寝の時に官能的な夢を見てしまう。特に嬉しくもなかった。そんなことより「いま」の方が楽しいのだろうな。

 

緻密な文章。僕の文章はあんまり緻密ではないよなと思う。素面の時はややましとしても、もっとシンプルに必要最小限で書けるようにしたいところ。読み手としても緻密な文章は好物。だから法学なのかという感じはある。事実と、事実に対する評価(意味の吟味)と、抽象論が割とはっきり分けられている。小説のようには読めない。ただ、結局は正しさとか合理性が社会の情勢によって更新されていくという不安定さはある。法改正すればがらっと変わるし。学問で言えば、歴史学はちょっと物語に近い。ミクロ経済学は数学ぽくはあるけど、結局人が何を選ぶかは定量化できたとしても確定はできないからなんともいえないもどかしさがある。哲学は、著者によりけりという感じ。植物生理学はただただ植物のシステムめっちゃおもろしろい。茎が折れた草がまた上に伸びるメカニズム。ホルモンの作用で上に曲がるように内側は成長が遅くなって外側は早くなるとか。ほんとよくできている。

 

統計学が見つかるかなと思い本屋に行ってみたのだが、見つからなかった。資本論も見つからないし、もしかしたら意識的に求めているものはほんとの次ではないのかも。ちょっと「行動心裡学」が気になった。人が行動する時の動機付けがいかにあるかなのだろうなという予測。個人的には動機は後付けでしかない派だから特に気にならないけど、一般論としては面白そう。統計学ってなんだろうなと想像するに、ある現象の原因をデータから取り出すみたいなことなのかな。社会全体を捉える学問っぽい。

 

何か自分に欠けていることが興味の前提だという仮説を立てたことを思い出すと、僕はあらゆる方向で全般的に欠けているのかもしれない。語学は最初の言葉から読みたいし、人だってもっと読みたいし、何かがおかしいと我ながら思う。さすがに楔形文字の文法書はないだろうから、ラテン語なのかな。「脳は私ではない」で、比較言語学が出てきて、母を表す単語の音がいくつかの言語で似通っているという話があり、バベルの塔の名残みたいだなと想像すると一種のファンタジーよね。シェイクスピアをなるべく原文に近いところで読みたい衝動もある。比較言語学的に日本語だけおかしいみたいな話もどこかで読んだな。

 

知っているということは、ある事実に対して確信があってなおかつ正当性があることらしい。プラトンさん(じゃなかったかもしれない)が定義したとのこと。であれば、僕はなんも知らんなという感じ。知っているように振る舞うことはできるとしても、僕の中は何も知らないから生きていられている。確信も昔はあったかもしれないが崩してきたからこそ「いま」がある。好きな人のことももっと知りたいではなく、もっと「読みたい」だし。そうして、読めば読むほど知らないことが増えて、近くなる。ほんと近すぎてやや恥ずかしい。

 

近いと言えば、日記の中に僕のぎりぎり徒歩圏内の公園が出てきた。阪急ルートだとかなり遠いけど、御堂筋線ルートだと僕の生活圏内である。物理的に凄く近かったのだなと思ったけど、実際にリアルタイムでそれを知ったとしても行くことはないだろうな思うと、好きのメカニズムが固有で、むしろこの感情に「好き」という言葉を当てるのもどこかおかしいのかもしれないまである。

 

ところで、買い出しに向かう徒歩道中、思い出とされるある特定の人に関する想起って、何が強いかなということを考えていた。色々想起させてみたところ、おそらく「シーン」か「言葉」だろうとなった。触り心地とか味とかの質感みたいなものは情報が常に更新されていて、「いま」のそれしか捉えらないから、できたとしても、言葉に抽象化されたものだろうなとか。

 

帰ってきてお風呂読書の純粋理性批判で、カントさんが同じようなことを言っていた。こういった感覚は世界を捉える形式だとかなんとか。カントさんが言っていることもなんとなく分かってきたところ。めんどくさいというかまどろっこしい。まぁ、カントさんは意識については語っているけど、過去については語っていない。経験については語っているから過去に近いのか。

 

好きな人に一生忘れないと言った。なにやら他人の中に残ることが良きことだとしていたから。存在感に対するコンプレックスなのかもしれない(知らんけど)。ただ、僕の中では人のことを忘れないなんて当たり前のことでお安い御用だから、こんなのでいいんですかとは思わなくもない。

 

自分の意識を定期的にサーチライトで照らしていると、どうあってもその時系列の人とか物が当然のように付着している。家族に対する温かさは特にないけど、そういえば父方のおじいちゃんと寝るのは好きだった気がする。特有の匂いも良かったし、気難しいお祖父ちゃんが僕には緩むみたいなところとか。

 

ここまでかな。

 

では、おやすみなさい。