取り分けて

 

 

 

ふわふわと凪いでいる。

 

時系列はスクランブル。

 

二度寝の前にふと思い至り、インスタを数分探り、僕から見た謎の人の像ととても近い画像を見つけた。そうそう、こんな顔だった。「SOLONGGOODBYE」の二週間後くらいだから時間的にも近い。被写体の見え方が変わるのはどういう影響なのだろう。被写体を見る撮影者の見え方なのか、被写体の撮影者に対する感情なのか。

 

昔の僕ならそういうことはとても信じられなかったが、こういう違いがあるからこそ写真が芸術というか価値があるものだとできる。謎の人の利き写真ができる気はしないが、たしかに舞台とかライブとかの写真はきらきらしている感じがする。

 

小川さんの小説で今日消滅した中に写真があった。消滅するとほとんどの人はその概念にまつわる記憶をなくすのだが、稀になくさない人が居て、秘密警察に追われる。主人公は小説家で、編集者がなくさない人だったためかくまう。写真について、燃やさない方が良いって編集者が言うのだが、主人公は写真がなくなっても(亡くなった)父や母は消えないって答える。僕はもともと写真は撮らないし、撮られるのもずっと嫌だった。前者は物より思い出で、後者はなにせ写真映りが悪い。でも、別に拒否感にこだわらなくても良いよなと思う今日この頃。

 

ともあれ。僕が見た顔が、他の人もそういう風に見えているというのはちょっと安心した。あまりに像を歪めているのであればあるがままではないし。しかし、どこが「おばさん」だ畜生。僕は発話しないだけで物怖じはしなくなってきたけど、直に接するとこの綺麗さに物怖じしてしまうのである。僕が物体的に好きかどうか度外視しても客観的に綺麗な人ではなかろうか(知らん)。

 

そうして、そのまま三日連続で夢に出てくる。前半は近い近いと思っていた生の感情が想起されとても楽しい。近い近いが接触まで至るのは流石夢である。これで仕事終わりくらいまでは楽しかった。ただ、後半の話はなかなか嫌な想念ぶち込んで来るなわが無意識という感じ。

 

ちょっと本の話で濁したい。昨日の、人は危機的状況を感知できないという話は、劇評につなげて書くつもりだった。絶対起こる未来の「あの日」は自分が終わる日だよなと。想像はできても生生しくはないから時間つぶしができる。たしかに死ぬまでは生きているのだから何かしらはしないといけないのだが。

 

時間といえば、行動経済学で時間割引という概念が出てきた。正式名称は違うかもしれない。今9000円もらうのと1年後に10000円もらうのとどちらに価値を置くかみたいな価値観は、人によりけりという話。ただ、これも1年後にも自分が存在している可能性は当たり前という観念が前提になっているよなとか。だいたいそうだが、だいたいで捉えて良いのか、みたいな。

 

あとはなんだ。今読んでいる世界文化史は、センター試験で、80点とか90点とか取れる人がさらに得点を狙う、ないし、難関私立の二次試験で得点を取るみたいなコンセプトの本で、高校生でこの文字数読めるのすげぇなと思う。僕は高校性のころ教科書すら全然読めない人だった。読めないというのは、文字を追って情報を記憶することはできても、自分の中に意味を構築できないという意味。やっとこさだわ。

 

日本史で面白いのは、縄文時代の人は戦争した形跡がないのに、弥生時代で稲作になってからは戦争が起っている形跡が出てくるところ。米を奪い合うのは豊かな世界なのか。

 

一応もう1周はするつもりだが、「私は脳ではない」は読了。唯物論から解放されないといけないという結論は分かる。しかし、そのためにはどうすれば良いかという具体的なメッセージがなかった。読み込めばあるのかもしれない。念のためのもう1周。全然知人になれなかった。自説の根拠を語らず、淡々と他説を否定する論法はずるいというか、当人が見えてこない。

 

次のシェイクスピアさんはヴェニスの商人。相変わらずメタい。舞台上で登場人物を演じている役者が、人生は舞台だから演じないといけないと宣う。好き。

 

あー、あー、あー。

書くか。

 

夢の前半も別に2人きりということではなく、どこかに移動している車の中で謎の人が楽しそうに近い。その後は男の人に、僕の考え方はおかしいとお説教され、さらに、謎の人も含めたみんなからいじられるというか詰めらるというか、やり玉に挙げられるというか。

 

謎の人との現実がないと無意識が把握したのは、この夢の3連日で分かる。何を夢に見るかは意識では操作できない。ただ、謎の人を一般大勢に含ませるのはなかなか毒があるな。確かに現実的にはそうかもしれないけど、僕が見た限りそういう傾向は皆無なのに。

 

集団が嫌なトラウマは経験則にある。

ほんとにこういうのが嫌だから、僕は断捨離したのだと思う。

 

例えば直近の元恋人さんの友人と接する機会があったとき、元恋人さんは平気で内側の話をするというか、むしろ僕のことを悪い風に言う。いや、ほんとはそんなことはないのは分かっているのだが、とても嫌だった。性生活の部分も相談されているのがとても気持ち悪く感じてしまう。これは、友人の方が長いし大事だという当たり前の話だが、そのレベルの大事さで僕と付き合うのか、みたいな。好きなのは分かるけど。

 

あと、集団のといえば、職場の飲み会とか、知人間の飲み会も嫌だった。自己開示ができないというより、開示したら駄目だろうなと思ってしまう。別にある意味他人のことはどうでも良いが、例えば、何かをするためにご褒美を自分に用意しないといけないという観念は自分にはないのだが、それでも動けると開示したら、劣等感を刺激してしまうかもしれない。何か未来の良き予定と、自分が活動的であることは全く連動しないって嘘くさくてたまらないだろうし。

 

こういうのを閉じるのが下手だった中学生時分、勉強してないのにテストの点が高いのはおかしいって言われた。たぶんこれって、僕はそれを勉強と捉えてなかっただけであって、それを言った当人よりは時間をかけていたのかもしれない。語彙がぶれる。

 

僕が集団で嫌なのは、集団の構成員が居るのが当たり前だから注意深く見なくて良いという観念。仕事なりなんなり、社会的に紐づいていれば一定の継続可能性があるからまぁ分かる。でも、そんな薄く見る人に時間をかける必要があるかという命題。

 

僕が合わなかっただけ。

 

集団で嫌だった極致は、コンビニバイト時代の交友関係。バイトでの年功序列は終わったのに、友人関係でも敬語を強要するみたいな人が居た。どんだけ怖かったのだろう。この人の恋人さん(今は奥さん)とちょっと前にLINEしたけど、一切関わるつもりはありませんって言った。詰まらないもの。

 

よくぞ言えたという感じ。昔の僕では断れなかったかもしれない。

 

集団で人と接しているとき、ずっと変だなと思っていたことが、最近になって可視化されたのだが、これは誰かと接したり、世界に行動的になったりしただけでは分からなくて、1人にならないといけなかった。

 

僕は依存的な意味で人を欲していないし、自分のことを知られることに意味を置いていない。1人で完結はできないことは分かった上で。基本的に開示したら否定されるだろうなという観念があった。だって、人は自分のことを否定されうる観念を否定して守らなきゃいけないし。

 

なので、僕は他人に自分の思想を呈示したことがあまりない。座右の銘みたいなフレーズとしてはいくつかある。「こころは暇人」「人間には学習能力がある」「自分は比較対象ではない」云々。

 

ここで、謎の人をなんで好きになったのかがちょっと分かる。

僕の思想の展開を見てもなんの反応もなく、それでも見てくれること。謎の人が見てくれているから、言語的に展開できたまである。内部的にどう思われているかは僕に感知できることではないないけど、振る舞いがどうしようもなく可愛い(ちょっと表現を柔らかくした)。

 

僕は現実的な振る舞いと、ここを一致させることを試んでいるから、誰かが僕だけに接している部分を他人に開示するなんてことはしない。直近の元恋人さんの知人が、何かないですかって聞いてきたが、洗い終わった食器の置き方がファンタスティックだって答えた。ほんと凄い置き方だったので。

 

フジロックで謎の人とも会っているかもしれないと思うと勝手に面白いな。

という感じで、僕は自分と直接関連していない人のことも満遍なく等価で想っている。

 

だから開示したくなかったんだという想念と、よく見てくれている奇特さと。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。