お弁当の1口目の白ご飯(と梅干)がほんとに美味しくてご馳走様な毎日。今宵の最初の1切れのハマチもさいきょうにおいしい。通勤時間のはとぽっぽ。どこにでもいるなぁと思ったら、何か色合いが違うのが1羽。アルビノというほど真っ白ではなく、稀に見かけるブラウン、山吹色、なんだろう、変な色のやつ。

 

時系列は少し遡り。

 

夢に謎の人が出てきた。別に恥ずかし出来事もない夢なのだが、それが逆に恥ずかしかったりする。母方のおばあちゃんちの居間がモデルの舞台。ぼくも含めたくさんの人がごろ寝している朝。謎の人がやってきて、小さな洋風カップに入ったコーヒーを僕にだけに(畳に直置き)無言で置いていく。ざわっとする周り。謎の人が戻ってきて、「恥ずかしいことばかり言ってくる」と言って何処かに行く。面識あったのかよーみたいに盛り上がりつつ誰かが、「なんだかんだ見てくれているということだよ。」と言うのだが、僕はそうじゃないんだよなって思っていた。

 

その後散歩に出ようとするのだが、謎の人が再登場し、どこ行くか分からないからと行かせようとしてくれない。なんだかんだ2人で出るのだが、すぐ海だった。イメージとしては千と千尋の電車のシーンみたいな感じ。僕は何故かコックシューズを履いていて謎の人はサンダルであった。その後も別に2人きりになることはなく、岩場に座っているのだが、海中から「岩手においでよー」という男性が居たり、間に男性が座っていて(像としては小学校の同級生だが、この前のだろう)、お前のせいだよって言ってふて寝していると、いつの間にかあいだの人は居なくなり、謎の人に下から覗きこまれていた。

 

イケメン風ですか?と、笑顔の像としては名前を聞かれたときか、お会計ちょうどですねのときみたいなやつ。この嘘寝については、なんとなく間がもたないときに寝たふりをしていた中学時代からの流用かと思う。

 

そのあとまた騒がしくなって、どさくさに紛れてちょっとためらいつつ手を繋ぐという、誰の手か分からないところに焦点が絞られるシーンがあった(なにせ感触がない)。

 

謎の人の口調は終始幼げで、僕のもそれなりにそうだった。だから、実際に謎の人だったのか、それに接しているのが僕だったのか、というのはあまり分からないところはある。夢の後には余韻があった。出てきたということはアレだが、何故謎の人と特定できたのだろうって突き詰めると疑問だ。なにせ、僕は現実で謎の人が人とどう接しているか知らないし、僕にどう接するかも知らない。ついでに逆もしかり。

 

その後の夢は、本棚があって、その中に自分が書いた本があり、それを手にとって読む夢だった。ごくまれに見る夢。夢の中では、タイトルも中身も読んでいて起きた瞬間には残っていても、すぐ消える。現実化するには読書量が足りていないのか。不可思議。

 

 

さておき。

 

仕事はまぁまぁ。時給換算で、拘束時間は不変なのだから、どれだけ負荷を重くできるかを試む。評価は知ったことではないが、迷惑をかけてはいけないからバランス大事。やっぱり緩い上司だと緩くして良いんだと思う人は居るわなという行動心理学。

 

帰り際、たまたま上司とエレベーターで一緒になり4分くらい話した。この上司緩い人だが、見えないところでやり手だと勝手に思っている。自己卑下感が発言にちらちら見えるが。

 

歩いて帰るのかと聞かれて、いや今日は最寄の大き目の書店に行くので電車に乗りますと言ったら、専門書を買いに行くのか、すげーなと言われた。僕が試験を受けていることは当然伝達しているため。こういった評価を聞くたびに思うこと。いや、人の方が難しいやろって。学問は理解で届くことができる領域かもしれんが、人は理解では届かない。たしかに、領域とか影響値を絞って分かった気にはなれるかもしれない。

 

学問は人の1部を皆に分かり易くしたようなものというイメージ。それでも難解。ただ、たしかに見通しはついてくるのかなという感じはある。

 

そんな風に本屋さんに行って、まずは法学の棚を見にいく。やっぱり全然更新されていない。店主が嫌いなのかと思うくらい。刑法の各論で面白い学者とセットの総論があればと期待したのが駄目だった。

 

本筋の行動経済学は、ちらっとグーグル先生に聞いて出てきた入門書があり、即購入。統計というかアンケート結果の集積みたいな学問っぽいが、古典的な合理的人間観よりは分かり易そう。人が何か共通項で括られるという観念でどういう文脈でもカルトっぽいが。ついでに昨日書いていたように、日本史と世界史も更新した。歴史は人の総体としてのタイムトラベルという感覚で読めてきて面白い。自分が素朴な自分だとしている中の文化の比率はどれくらいあるのか。

 

どうでも良いけど、昼休憩で更新がなかったから羅生門を読んだ。高校の現代文で読んだことは覚えている。よく分からないなと思ったのは今日読んでもあまり変わらなかった。状況とかどうなったかは高校のときより再現できる。下人が雨宿りしていた羅生門は京都の荒廃で乱れていて死体置き場みたいになっていて、諸々で老婆の服をはぎ取って逃げた。正義とか悪とかの心象の波はなんというか感情の波でしかない。現在でも読まれているのは、この下人の心の中身の動きに人の本質があるのだろうな。

 

アンナカレーニナはあんまり文化が分からないが、普通に物語として読める。僕がもともと文化的背景にあまり重きを置いていないのかもしれない。昔は文化で押し問答していた頃もあったが、そんなことどうでも良くなった。いや、文化を強制されたら今でも反発するのかもしれない。プルーストさんは、1巻目を2周目していて、さっぱり話の筋が分からない。共鳴して思考が捗ってしまう。あんまり1つ1つの単語に意味はないように読める。アランポーさんは、ほんとにそんなに注意深く生きて良いのかという感じ。だから物語なのだろう。でも、僕は、神経質ではなく真剣にこれくらいの水準で世界に生きたい感じはある。人って自分のこと見破られるのは嫌だろうから、全開示はできない。

 

ゲーム系をやっているとき、ほとんどなんにも考えてない。将棋とか大富豪とか人と接する時もそうか。真面目ではない。勝敗があるものって無理なんだろうな。

 

この文脈が、世界においてどうでも良いことばかりが気になるということ。

謎の人のことも、そうなのかもしれない。なんだか幼げなイメージがあるのは、僕に対する現実的現象、文章、写真とは別のところ。ブログと日記の違いは自分に課しているかどうかなのかしら。

 

引っかかるところ。

 

僕は謎の人のことを良い人だと評さない。律儀、とか変、とか魔女とかはあるが、良い人という評価は、個別的に接している「人」に対する評価ではなく漠然とした「人」に対するものだと思う。いや、これは僕が自分に対する評価として「良い人」だと評されることの薄さの経験則だけであって、もしかしたら特有の語彙があるという説もある。

 

謎の人は僕に対して優しくある必要もないし、良い人でなくても良い。ただ、それでも毎日来てくれるのはなんでだろうな。

 

真剣かどうかも、当人の主観的にはどうか知らんが、僕にはそう見えるというだけ。

 

僕の方からもてきとーに扱っているので。僕という読み物がなくたったら、悲しくはなくても寂しくはなるかもなとか、人間味を加味してみないと。

 

では、おやすみなさい。