素朴感

 

 

引き続き残業1時間。今週で終えるという予定は潰えたから、特にダメージはない。仕事自体は暇だったからPhotoshopをいじっていると、30分で良いよって言いに来たかもしれない先生に感心されてしまい、1時間になる。このアプリやたらと読み込み時間が長い気がするがスペックによるのか。私生活で使わないからよく分からない。仕事で使っているパソコンのデスクトップにはやたらとアイコンがあるのだが、僕のパソコンにはアイコンは5つくらいしかない。もっと減らしたい。

 

そうして帰りに久々に電車に乗ったら電光掲示板がちょっと変わっていた。のはともかく電車に乗っている人は皆自分の世界だけで生きているように見える。見えるだけではないかもしれない。僕が注意深く人の邪魔にならないように生きているのが馬鹿らしく、はならないな。自分がそうしたいからしているだけ。出るときに先頭に立つなら早いか急ぐだし、買い物はなるべく早く済ますし、ちゃんと自分の時間を過ごそうとしているだけ。ダンシャリではなくより増やす? なんだろう。

 

んまぁ、長縄飛びみたいにタイミング計っていたら何もできないのも分かる。昨日だったか一昨日だったか、住処の階段で年配の女性が一生懸命登っていたがこれについてはなんとも思わず、ゆっくり邪魔しないように後続した。すみませんって言われたが、いえいえ全然(この階段、一段一段が高いから大変ですよね)と返した。

 

何が違うのかは分かるのだが、あえて言語化はしない。

 

さておき。

 

お刺身を買って帰ってきて、ほんとはそのままお風呂に入る時間だが、明日は休みのため勘が鈍らないように本を読もうとすると、nikkiが更新されていたためそちらを優先する。レイアウトが変わったような気がする。カレンダーというかダイアリーみたいな。いや、実際変わったのかどうかは分からないが、たぶん変わったのだろう。中身は、なんだかヒヤヒヤする。調子が良くなさそうだし、大丈夫かというところもあるし、他にも諸々。

 

ちゃんと勘も研いだ。法律ってバランスが絶妙だなぁと改めて面白く読める。これを語るには概念がないといけないから民法はここではあんまり書けないが刑法は割と素朴な概念でも分かるか。どうだろう。刑法が保護している人の価値って順列があって、ナンバーワンは言わずもがな生命。生命→身体→自由を保護することで物理的人間を守り、名誉、信用、業務で社会的人間を保護する。良くできている。精神自体を保護することができないのもしかるべきという感じ。いちおう憲法で思想良心の自由を保護する規定はあるが、これは素朴な精神というより、ある程度完成したものさしを国家が壊さないということであって、人同士で素朴な精神を攻撃することには関与できない。ルール付ける領域でもないが、心無い誰かの発言が人の人生を左右してしまうこともあるから、法律も完全ではない。

 

そういえば、「おやすみなさい」でミクシィの記事があったから、自分でも発掘してみたらまだ硯のアカウントが残っていてマイミクさんも1人いた。日記も残っていて、2018年ってかなり荒れていた頃だなと眺める。環境がほんと雑過ぎて疲れまくっていたのだった。仕事は毎日残業2時間だし、同僚も雑い人ばかりだし、雑くなる自分も嫌だし。生活圏と素朴な自分が全然合って居なかった。この荒れっぷりでマイミクさんにもなかなかやらかしたしはっきり拒絶されたはずなのだが、外されてないのはなぜなのだろう。これってもしかしかして謎の人とも通じる何かなのか? うぇぇ。

 

ほんとに3年前の自分と今の自分は全然違う。いや、違わないか。解像度が違う。

 

日記はその頃も毎日書いていたが、語彙がめちゃくちゃ呪詛に満ちているから、自分以外の世界が全然見えていない。ただ、日記の哲学パートでは自分では居られた。具体的な人の誰にも語れないが、自分の中にはある言葉群。

 

またあっちで書く筋もあるのか。「会いたいって言って拒否された硯ですがお元気ですか」ってメッセージなぞ送れははしまいが。

 

その頃僕を愛していると言ってくれた男の人が居た。これはほんとのことで、職場の上司だったのだが色んなところに連れて行ってくれた。高知、伊勢神宮、岡山、あといくつかあった気がするが、ともかく。ただ、今の自分からするととても押し付けがましい愛だと思う。幸せであれば良いという観念があるのであれば、別に自分と直に接している必要はない。接吻とかはただの感触でしかなかった。

 

悪い人ではないと思うが、高圧的過ぎてほとんど素朴な発言はできなかった。全然許容されてないなという感じ。洗脳のやや手前くらいにはあったのかもしれず。割と人間関係では濃いことばかりあったから人間の深みを知らないとかでない。世界を鮮明に捉えているのは自負がある。

 

ただ、この鮮明の反動として、ただの知人としての関係性ができなくなった。そんな薄い空間に時間を使うのなら、本で具体的に関係した方が良い。人間の細かな来歴としての所作は好ましいが、そこに含まれることに快は全くなく。

 

佐々木さんの本で、主人公は向いている向いてないではなくやらなくてはいけないことがあると言っているのだが、この「やらなくてはいけないこと」は何処から来ているのかと考えるとこれは生来の文化だと思うのだよな。料理ができる女性像が正しいという観念ってまさにそう。

 

で、現代的に考えると、向いているかどうかって単に対象に対して突き詰めることができるかという義務ではない興味でしかないのではと思う。

 

したいならすれば良いが、したくないことはあえてする必要もなさそうな。

 

そこのバランスは当事者間でとればいい。僕は義務ないし対価で自分を決めていないから、僕を決めない人がパートナーになってくれたら、なかなか凄いことになりそう。

 

愛情表現というフレーズが佐々木さんの小説にあったのだが、「料理は愛情」と宣う人は愛を主観的に捉えているような感じ。愛情かどうかは、相手側の匙加減でしかない。自分が慈悲を振る舞って満足する主観の人も居るし、でも、これって相手は誰でも良いだよな。そもそも何をもって愛情とするかも個人による。自分を度外視した奉仕的な精神に愛を求めているのであれば、赤ん坊的な感覚ではあるが、んな愛はありえない。

 

僕は愛を、自分とは度外視した承認としている。

 

おやすみなさい。