人とは

 

 

男子高校生が言っていたのは「死に方スケッチ」ではなく記憶を再検証した結果、「死に方コレクション」だった。語呂が良い。劇評に使わせてもらうかもしれない。

 

言葉では遅いのではなく、「そのもの」なのではないか。

何か、人間観が変わりつつある(もともとかもだが)。

 

さておき。

 

noteに今回の演劇の参考文献のリストがアップされていて、図書館に行かないと、という夢を見た。

 

髪を切りに行ったあと、スーパーで清算していると、袋詰めする机に清算済みの黄色かごが1つ、空で置きっぱなしになっている。その両側で別の人たちが袋に詰めていたのだが、その人達はそのかごが存在しないかの如くスルーした。自分の清算済みのかごに重ねて一緒に片した。皆自分のことだけに一生懸命に見える。たしかに僕がほっといても店員さんがいつか片づけただろうし、別に僕が関与することで何かが変わることではない。ただ、僕はこういうどうでも良いことがとても気になる。

 

人の存在論として、物体としての人とそれに付属する「こと」がその人の本質に近いのかについて首肯できないのがこういうところ、中身はもっと別のところにあるのではと。物体的な自分は、もちろん主目的として肉体としての自分の保続がある。立場のための動きとか声とか諸々。たしかにここに身を置くことで薄い連帯感としての「人」になれるし、都合は良い。僕が馴染めないのは、おそらくこういう視点からしてどうでも良いことばかり考えているからだろう。謎の人が良く寝ていてくれば良いとか、恋愛感情的な感情では捉えられないし。

 

ところで、昨日(まだ昨日)丸善で収集した、刑法各論。あぁ各論というのは、ざっくり言うと、個別の犯罪、殺人罪とか傷害罪とかが、何故犯罪なのかという意味を探る学問。同じ人を死なせる結果をもつ、殺人罪同意殺人罪と過失致死罪がどう違うのかも含む。狙っていただけあって、とても美味しい。刑法=社会がどこまで人の命を保護することを要請しているかという視点は新鮮。例えば、殺人罪の対象は「人」で、どの本にもどこからが人でどこまでが人かという話があるのだが、どこからが人という意味での人だと、母体から一部露出した段階で独立に侵襲できる対象になるという理由で「一部露出説」が主流。ただ、命を持った人として保護する段階と、侵襲可能性って連動しているのかという疑問がありしっくりこなかった。母体から分娩されるプロセスを経たものが「人」であることを前提に分娩が開始されたときを人とするという説の方が分かり易い。母体を介さないで人が生まれるようなことになれば、反省を迫られるだろうなと書いてあったが。

 

あと、人が人でなくなる段階として、脳死説の紹介。肉体としての人は保続しているけど、人口呼吸器で繋がっているだけのことを社会的に人とするのかどうか、かなり難しいし、もっと細かな話もあるから誤解が生じそうだが、人は精神と肉体がセットだという叙述があってそうだよな、と思う。僕の存在論の見解はこういうところからもきている。

 

どうでも良いけど、昔、一番長く続いた恋人さんに、飛行機で事故って死ねと思いながら人に旅行を勧めて、実際事故が起こって相手がなくなった場合、殺人罪には問えないという話をしたら、当たり前じゃんって一蹴されたことを思い出した。これを当たり前にできるのは社会的に常識人だよな。僕は常識人ではないから、社会的に広く薄く負担されている危険に関しては刑法は関与しないという説明がないと分からない。素朴には人は言葉で人を殺すことができると思っているが、これも、物体としての肉体が伴わない限り刑法は関与しない。まぁ何をもって精神的な死とするかなんて明確に定義できないから仕方ない。

 

 

ちょっと、劇評についてのメモ。全然台詞が頭に入ってなくて大丈夫かと思う。本を読んでいる時にも起こる、観ながら考え事をしてしまうという現象があっためところどころ抜けている。別に謎の人のことを考えていた訳ではなく(いや、数瞬は割り込んで来たか)、なんか僕のテキストデータが入ってないかという動揺。いや在りえない、いやいや、別に誰でも見られるところに置いているからなくはないとか。

 

誰でも舞台に上がっているというのは確かにそうだろうけど、僕みたいな皆勤賞を含めた2回以上観ている人達へのサプライズというかそういう試みがありそう。なんというか思ったより舞台も客席も狭いなという心象。見せ方なのだろうな。置かれていた小道具は何なのか、丸皿みたいなのは反射するためなのか、好みの球体のガラスが丁度良く見られなかったのはなかなか切ない。

 

ちらっと感想のつぶやきを見たところ、現在過去があるから未来に希望を抱けるとか、ドラムと命語りのセットの時にドラムが心臓の鼓動みたいだとか、なるほど、そういう捉え方もあるのかと。基本的にこの三部作、何か一義的な意図がある訳ではなく、作品を通して自分にまなざしをむけることこそ意図なのではという感じ。劇評も必然的に自分語りの様相を呈すから、データのあるなしは全然関係ない。ここの日記みたいに書いてやろうと試んでいる。

 

自分のことを考えることは世界のことを考えることと繋がっていて、世界からもそう。

 

そういえば、謎の人は、僕の文章について1度も何か評価してくれたことがない。嬉しいとか、自分のことをそんなに考えているのですかみたいなことはあったが。でもこれが良かったのかもしれない。

 

謎の人に対して恋愛感情的なものがあるのは確か。自分の網膜を通すととても美しくなるし可愛らしいという現象もそうだし、性的な欲動もあるし。これは物体的な人としての謎の人に対するものであり、起爆剤にはなるだろうが、とても不自由。場所が1つしかない。

 

ただ、自分の感情を探っていると、もっと別のものがある。自分とは無関係で連動していない。「存在の承認」みたいなもの。これはあえて嬉しがってくれなくなったからこそ見えてきたもの。相手が嬉しがっているとかとは無関係に人を読む。これはフロムさんのいうところの「愛する」に近いような気がするけど、そんな高尚な名前が付くものではない。存在していることが嬉しいというだけの話。

 

これで考えると、謎の人が僕の恋愛感情的なものを許容しているように見えるのはとても不思議。1番分かり易いのは相思だけどこれだと矛盾しそう。物理的には1人しかない(いや、1番長く続いた恋人さんは浮気相手と僕と2人とも好きなんだと言っていたな)。次は、別に応える必要もない好意なのだし貰えるものはもらっておこう。こっちは文章を読んでいる上では在りうる。あとは、僕が見えていないなんらかの別の価値観から。

 

「存在の承認」は、僕から始まったものではないような気がする。

だから、器が大きいと評している。

 

 

そうこうして、存在と言葉の話。

素朴な存在として、物体としての人を重視するのは、分かり易さもあるだろうが、どちらかというと自己観がそこにあるということにあるからだと思われる。僕は物体としての自分と、それを操作している無意識と脳のメカニズムと、諸々を加味して、独り言的文章が一番素朴なその人に迫っているのではないかとなっている。

 

どういった相手を対象とするのか、どの単語をあてがうか、どう構成するのか。

全人格が行使されるものなのでは。こういう風に見ると、文章が客観的というか物体としての当人から離れた表現物だと思うのも分かる。実際著作権で財産として保護されているし。

 

ただ、僕は自分の文章に対して評価されてもなんとも思わない。へぇそんな人も居るんだという感じ。これを僕が言葉を自分と切り離しているからと解釈していたけど、むしろ逆なのだろうなと気付く。

 

言葉も自分の挙動の1部に過ぎない。自分が歩いていることに対して凄いって言われもなんとも感じないのと近い。挙動の1部だから尽きることがない。

 

 

で、存在をもう少し突き詰めると、情報だと思う。人の物理的な挙動を捉えるのは、ほんとにその人の情報が大事なのではなく、自分にとって価値があるのかどうか。謎の人はわりとどうでも良いところ捉えているような感じはする。

 

僕は物理的挙動を人だとしていたけど、そうじゃないんかもなと思ってきた。もともと、物理的に接している人が書いた文章を食べたいと思っていたけど、なんというかそんなことする動機もなかろう。こういう意味でも謎の人はとても美味しい。逆からきている。

 

で、情報が人だとすると、自分の中にある過去情報である「あの日」は自分ではあるけど自分ではない情報よな。そういう分裂性がテーマなのか。僕はあんまり自分を情報として捉えていない。僕は僕であり記録と関係ないところに在る。

 

なんだか文字数凄いな。すっきりの効用か。

 

おやすみなさい。