真剣さ

 

 

夢はいとこが出てきて、ちょとホラーな感じだがその中に写真あった。その写真は確かにある瞬間で時間が止まっているけれど、平面ではなく空間で中のどこからでもそれが見られる。夢特有の俯瞰視点と思ったが、僕は割とそういう視点で過去を見ている気がする。イメージとしては科学番組の恐竜時代みたいな感じ(よくわからないと思われる)。

 

仕事では、Excelの関数の使い方が1つ分かり、楽しいなと思っていた。サポート対象外なのだが、先生の趣味がExcelなこともあって、見様見真似でやってみただけ。数を数を数えるって、まぁ日常では使わないだろうがあまり関係がない。

 

さておき。

 

自分の中にある情報をさらっていると、ふと、「そろそろちゃんと真剣に生きるか」という気分になった。真剣に生きるとはどういうことなのだろうという命題。

 

ところで、挙動しての文章=存在のデメリットは、生の感情とかには迫らない影響でも、薄く長く残ることだな。文章の場合、まず保存性と再現性が他の挙動と明らかに異なる。故人でも、その人の生の挙動は他の生の感知に更新されうるが、文字で残っていれば何回でも読み返すことができる。あと、生の挙動は振り返ることだけができることと比較して、文章は当人の世界の中で再構成されるから、その人のものとして残り続ける。これは読み厨の僕特有のものさしかもしれない。ただ、同じような傍観厨の謎の人にはある程度共有されているのでは。

 

僕が文章で存在の挙動をすることによって、読んだ人に薄く残り続けてしまうことは不可避。単純に量で比較すると、僕が読んだ量より読まれた量の方が多いと推測される謎の人には、トータルでどれくらい残ってしまっているのだろうと思わなくもない。重さがないものが積もっても重量は0のままではあるが。

 

劇評をどう書こうかといくつか構成しているとき、シーンがなんというか冒頭の夢の視点みたいになった。例えば、謎の人から見れば、ガラス玉のモニュメントも見えたのだろうなとか舞台の上部にある換気扇から見たらとか、伊奈さんとか残さんの視点では観劇席はどう見えたのか。(帰り際、謎の人から見た僕の像はどうだったのか)。

 

どうでも良いけど、舞台を観劇席にしたのは、このご時世のガイドラインでお客さんをあんまり入れらないから、広い方を舞台にしようという制作陣の遊び心もあったのではと想像。

 

お風呂読書時間に、PIPEDREAMとSOLONGGOODBYE(略記、ほんとは全角)の台詞を再現できるか発掘していた。PIPEDREAMの方は台詞より動きに注視していてほとんど再現されない。ティラノサウルスと、当たりくじで生まれてきたみたいなのは自分で日記に書いたから再現できる、あと今思い出したけど、柱時計みたいな音を口で鳴らしていたのではなかったか。回転数は計算なのかと考えてくらいまでは再現できる。

 

2年目は、1年目には原典を読んだがあまり読むことには意味はないと分かり、インタビュー記事も読まないで行った。雪が降っていて、謎の人が受付に居て、労ってくれたのだっけ、「流石京都ですね」っていう発言は現実化したのかどうだったか。台詞の方はテキストデータを読んだから、PIPEDREAMよりは出てくる。警察官の人とかだったか。渡辺さんの自己紹介が唐突に始まって、真空パックン(正式名称合っている?)の音と台車とバナナ。これはテキストを読み返せばもっと再現できるはず。帰り謎の人と話したとき名残惜しかったなーという余計なことも思い出す。

 

唐突と言えば、GOODWARも、伊奈さんが舞台の真ん中まで静かに歩いてきて始まったのだっけ。叫びという音。叫びという命。

 

全二作はそれぞれ出演者が1人だから、誰かのメッセージを代弁(再生)している感じで分かり易かったが、今回は、対話とか反響みたいなものがあり、なかなか腑に落とすのが大変。謎の人も思ったかもしれないが、僕の右隣(謎の人の左隣)の人はちょこちょこくすくすしていた。僕だけだろうくすくすポイントは、残さんの台詞の中にあったブランコの危険性のところ。あ、これ制作日誌のやつやんと。利き酒ならぬ利きテキスト(テクスト?)。SOLONGGOODBYEの時もちょっと思った部分があったが、これは定かでない。

 

真剣に生きるという命題はこういうところに係るのだが、ちょっと置いておいて本の話が溜まっている。

 

次の本は、行動経済学を狙っている。今読んでいる古典経済学では経済的行動における人の合理性を完全に信じているが、行動経済学だと、人の経済的行動の合理性には限界があるという前提があるらしい。バイアスとかなんとか。行動心理学より美味しそうだ。

 

昼休憩の青空文庫は、夏目さんの虞美人草と、坂口さんの白痴で揺れている。白痴は既読だが、あんまり既読な感じがしない。謎の人の日記かnoteが更新されていればそちらの方を読むのだが、なかなかじらしてくれる(好)。

 

新刊小説枠では、概念が消滅していく島の話。概念というより、それにまつわる感情とか記憶が朝起きたら無くなっていて、ただの記号的な物体でしかないという感じかな。「鳥」が消滅したら、鳥を飼っている人でもなんの愛着もなくなって放してしまう。喫緊だと「バラ」が消滅して、花弁が川に満載で流れるというシーンがあった。なんだか突き詰めて考えると矛盾があるような気がするが、読み終わってから考えよう。

 

あと、そろそろフロムさんの「生きるということ」と「愛するということ」も卒業かも。なんとなく言いたいことは分かった。歴史系ももう少し細かくて最新情報にした方が良いのかも。循環の時期なのにカントさんの純粋理性批判が面白い。時間が客観的なものでないというのはとても良いな。実際そうだと思うし。

 

現実に戻ってきて。本日は母親と通話したのだった。なんというか発話している自分はそんなに自分ではないと思うが、発話している相手は気持ちよく話して欲しいなと思うから、先取りもできる。ただ、何もすることがないから時間を潰さないといけなくて、ゲームしたり内職したりしていると言っていたのはなんとも。おそらくこの通話も自分の「時間つぶし」のために僕を使っていると思われる。その余っている時間をくれと一瞬思う。

 

というところで真剣に生きるという話。

 

結局のところ、自分のことを余すことなく使うことなのではと思った次第。思い出が通り過ぎるものだという観念にも従わなくて良いし、記憶が減退するとかの一般論も知ったことではなく、自分に傾注する。ただ、これは自分がしたいようにして他人をないがしろにするにもならない。大事でも切実でも尊重でもなく、自分が自分で在ることを目指すのであれば、他人も同じ水準で見るしかできなくなる。

 

「脳は私ではない」で面白いなと思ったのが、「人の尊厳」は触れないというフレーズ。そう、人は厳密的な物体ではないから知覚の対象ではない。確かに触れれば触れるし、声も聞こえるし、見ることもできる。でも、この五感で感得できる「人」は物とあまり変わらないということ。物としての自分ともっと深い人としても自分のギャップは年齢を経れば考えなくなるのだろうけど、僕には知ったことではない。

 

この意味での人と交わるためには、考えるとか想像するとか現実的な人間観と自分が離れないといけない。という意味で考えると、謎の人は割と僕に対して真剣に接してくれている気がするんだよな。

 

 

今日はここまで。

 

楽しい毎日である。

 

おしまいで、おやすみなさい。