今日はこっち

 

 

土曜日出勤終了。女性の上司から先輩の年下男性と共にチュッパチャプスとサンダーなんたらのお菓子をいただいた。帰り路、春にいつも土筆が生える坂で何かを収穫している人が居た。近くで見ていないから分からないが、土筆はまだ生えていない。ふきのとうかな。

 

さておき。

 

2回分は穴の底で書いていたのだが、なんというか、自分の狂人性と性悪性が剥き出しになり、なかなか面白い。性悪性は狂気よりももっと深いところにある。腹暗い。

 

何処から書こうかな。

 

ヴェニスの商人の、金、銀、鉛の箱を選ぶのって一択しかないと思うのだが、登場人物はことごとく外す。金の箱が大衆が欲しているもので、銀の箱が自分にふさわしいものらしいが、ほんとに欲しているならなんで自分がリスクを払わずに与えられると思えるのか不思議。鉛は全てを捨てる見返りにみたいなことだっけ。まぁどんなに美しくても全く知らない女性を娶るためにリスクは負えないわな。結末が気になるところ。今でも読める意味がとても分かる。

 

こんな文脈で、先輩である年下男性と話したところ、どうやら6年目とのこと。これを踏まえて上司との雑談を聞いていると、情報が新しいだけで初対面みたいな会話をしている。どれだけループしてるのだろう思った。いや、お互い仕事の拘束時間を潰すための消費であればウィンウィンだから良いのだろうが。

 

穴の穴でこういうことを考えていたのだった。世界文化史によると、世界が始まりから終わりに向かうという矢印的観念はキリスト教由来らしい。ということはこれを素朴に信じている人は隠れ信者である。仏教とかヒンドゥー教だとループしている。いや、物理だと反論されても、物理学ではとっくに時間は客観的存在ではないとされていますがとなる。年齢というか年輪を重視するのは、旧来の家族性とか年功序列の影響もあるのかもしれない。

 

素朴な僕は時間の認識として回数制を採用した。今まで何回は定かではないが、あと、何回はしっかり見る。世界に対して目を開く。

 

関係のループ性というか、影響値の話。今読んでいる新刊枠は料理下手の女性が主人公の、僕と同い年の人が書いた物語。なんだか気が合いそうな気がする。いや、読んだ人はだいたい合いそうな気がするのだが。まだ初めましてなので名前は憶えていない。

 

リンゴの皮むきができないことに対して、父親が自分でも誰でもできるわそんなもんって主人公に対して笑うのがとても不快。世の中には当たり前の水準に至らない人が居るだろうがと。ちなみに僕も手先はむちゃくちゃ不器用で、キーボードの扱いもあんまりうまくできていない。ナチュラルでは水準以下の人物だった。

 

ここで僕の狂人性が垣間見えるのだが、上司と先輩年下男子が料理めんどくさいし洗い物も云々の話にもはや入れないところ。今のところ平日限定だが、作るかどうかの選択肢はもはやなくて、何を作るかしかなく、あとはどう休日の食べなくても良いところを試行するかになっている。

 

これを履歴書に翻訳すると、料理が趣味ですということになるし、かつての職場では完成度が高すぎて嫁が居る説とか、嫁が居ないと知られた後は狂人みたいに見られる。せめて凄い人評価で良いのでは。履歴書に書いた職場は全体的にハレモノみたいに扱われていた。あの職場最強に居心地悪かったな。

 

で、この小説で、料理は愛情だとか、大切な人ができたら変わるとかありきたりなフレーズが出てきて、上司と先輩の会話で、誰も見てないから怠けて良くなるみたいなフレーズがセットになるのだが、なんで、誰かが見てないとダメなんだという話。

 

僕は料理を続けていて、一応外には好きだからという燃料があると言っているが、そういう次元の話ではない。怠けた分は至らない野郎がカウントするとしても、この至らなさはどうでも良いレベル。別に健康のためでもない。いや、気を抜くと活動レベルが下がるくらい食べなくなるから、自己メンテナンスくらいの意味はある。食費の節約という文脈は皆無。毎週末お刺身食べているし。誰かに見せたい訳でもないし、食べさせたい訳でも、最後だけどうだろう。

 

この、モニタリングがないとちゃんとできないという文脈って、特に人を固有の人とは見ていない、環境としている感じがする。その人の為にということではなさそう。

 

あと、この小説で面白いなと思ったのが、主人公の母親はちゃんとご飯を作ってくれる人だったのが、友達が、母親と20数年一緒に居て全く影響を受けなかったのって素朴な疑問を呈したこと。そうなんよな。

 

僕は母親の料理の影響はほとんど受けていない、たぶん自分の料理の方が薄味だし、たこわさとか作らないだろうし。僕がお弁当を毎日継続していることを報告すると偉いじゃんって言うのだけど、これってたぶん当時自分がやっていた義務に対して褒めて欲しかったのだろうなとしか思わない。母親から褒められようが、仮にけなされようが僕の試行は変わらん。一応全くの他人にも食べさせたことがあり、美味しいという評価だったから問題ないはず。今考えると、男が作った料理を職場の他人が食べるって狂気の沙汰だが、どういう限定解除だったのだろう。ちなみに、エビチリとかスイートポテトとか。お金取っても良いのではとかと言われたこともあったが、そういう目的で作っている訳でもなし。

 

ただ、料理の愛情性は、自分が美味しいと思っている料理を提供することではなく、相手の好みとか健康状態も踏まえて操作できることであると思うから、本当の1品はまた違うようにするのだろうな。これくらい本気であるべき。

 

たしかに僕はどの時系列で見ても狂人でしかない。

 

ところで、自分が性悪だと思ったのは、自分という読み物が無くたったらどうするのだろうなと観測していること。ほんとに切ない人格とは離れて、相手はどうするのだろうを観測できる人格も居て、むしろ狂気を孕んでいるのは貴方の方ではとか評価したり、やっぱり思った通りの狂人だと思ったりする余白くらいはある。

 

「おやすみなさい」を読み返していて、なんだかすまんやでと思ったのが、「誰かに狂ったように愛される」空想。狂人に好かれただけだった。

 

2日離れると、随分と客観的になる。

 

信心が狂気だというフレーズが僕宛かどうか分からないが、仮に僕に対する評価と仮定すると、ご褒美も対価もない行為は信仰にしか翻訳できなかったと推測できる。

 

たしかに何かを信じることで云々は燃料になるとは思う。が、僕が信じているのは何か返って来るかもしれないっていう因果的な存在ではなく、ただ単に在る貴方。僕の現実的な行為とは無関係に存在している存在でしかない。僕は別に自分を生きるために目的とか意義とか褒章を設定していないので。返って来る可能性についてはよく分からないからこじれていた。

 

分析的視点で言うと、2年共同生活している同居人さんの言動で改めて凄いと発見するとか、何を見ているのかだし、腹暗くてしょうがない。

 

つまるところ、なんで一緒に居ても影響し合わないのかというのはとても不思議である。僕は共同生活していた(していなくても)恋人さんの生活のやり方はいちいち覚えているし見倣っている。

 

素朴な疑問として、なんでちゃんと人を見たときに、自分に反動がないように大事にできるのだろうということ。反動がないなんて他人でしかない。いや、反動がない同士でうすーく連帯していくのが大人だし、分かるが、僕はうすーく生きるのはやめた。

 

本気で生きようとすると、自分の事を拙く認定してくる人も、自分の事を無駄に賞賛しながら消費してくる人も要らない。ちゃんと本気で自分を見る人だけで良い。

 

謎の人は反動がある風で良いのだが、鉛の箱を選んだら、憤怒氏から異議が上がる。自分は動かさない範疇で僕が含まれるのであれば無理だろう。いや、そんなに想われるのキモイで良いのに、キモイと評してくれない不思議。

 

現実的文脈で言えばこの人まだ煙草を吸っているのか、吸っていても絵になりそうだなと思う訳で、別に清廉潔白さなんて求めていない。

 

なんで僕に影響受けているんだろう。

影響受けてないと言われたら、そうかもしれないで収まる。

 

 

狂気は収めるべき。

 

そうそう、当人劇場。なんで人って人生をお客様みたいに捉えているのだろう。動かしがたい自分ってほんとに自分で決めたものなのかって。いや、自分は自明だって論陣を張ったとしても、その自分はどこから来たのかってなんでならないのだろう。考えるってそういうものではなかろうか。(足りてないと思います)

 

料理も文章も一緒。全部一緒。全力で生きていない人が誰かにだけ全エネルギーを費やすことなんてできない。僕が不器用だからというのを度外視しても観測圏内ではだいたい正しそう。

 

僕が触れる機会があれば全力で(略

 

ちゃんと生きようとしたとき、人はただの無限の存在でしかない。

 

おやすみなさい。