継続は力でもない

 

 

 

引き続きお月様は熱のない光をたたえ見守ってくれる。下界では一軒家のイルミネーションがきらびやか。光の時期。

 

しかしほんとかわえなぁ。わざとか。わざと捉えて構わないのか。

 

 

さておき。

 

昼頃はなんとなく精神が沈んでいた。アドラーさんがいう「いまここの自分」はおそらく、過去と未来の自分の虚構的感情ではなく、いまの現実的な自分を注視するというということだろうとは分かるのだけど、それは過渡で、ほんとうはその現在的な自分の感情にすら囚われないということではないかという発想。しかし、これだと確かに自由自在だけど、では自分とはどこに存在するのかってほんとに分からなくなるなという、意味がわからない落ち込み。

 

これも完全に中のことであって、1か月の中でもっとも忙しい仕事日を淡々とこなした。しかしよくもまぁこんな中身で発話が滞りないものだ。仕事だからこそか。面白きなぁ。中と外は違うからあんまり関係ないのに何か相関している。満たされる必要は全くない。

 

凪ではいるけどちょっと違う気もする。

 

ともあれ。

 

宮下さん読み終えてしまった。次の小説には一応目星はつけているけど、どうなるだろうな。タイミング的にとてもちょうど良い本だった。たぶん精神世界がまぁまぁ近接している人。という感想が嬉しいのかどうかは知ったことではない。

 

最終章で、なんだかんだ毎日ご飯を作っているという境地に至った主人公。そこで、「毎日が一番偉い」という発想が起こる。確かに前の前の職場でも毎日お弁当を作って行っていると羨望、あるいは侮蔑、は言い過ぎか。よくそんなに毎日時間をかけられるな、自分ではとてもできないという引き気味の目。嫁が作っているのだろうという風聞が流れる。

 

この「毎日の力」については、人のことについては凄いと思う。母親は仕事しながら毎日ご飯も含めた家事をして、家族という生活空間を維持してくれていた。これについては確かにありがたいし凄いことだと思う。好きな人が何カ月かやっていた毎日日記を書く試みも凄かった。なんというか継続には弱そう(控え目な表現)なのに、よくあれだけ続いたものだ。

 

もちろんこれは上から目線ではない。あくまで僕が捉えられた情報を集積した相手の立場になってみた想定の話。おそらく、「毎日の力」信仰があると思う。母親も別枠だけどきっとそう。母親の役割を継続していれば子供から自然と愛が返って来ると思っていたはず。こういう義務を継続することで何かが返ってくると思想はきっと姉にも妹にも承継されている。だから、義務を果たさなくても尽くしてくれそうなパートナーを求める。でも自分からしないのであればなんも変わらんよな。

 

僕はこういうところを反面教師にしているのか、こういう自分がやった分は返せよ、という感覚がどうも合わない。そういう感覚の人に対しては主張してみたことはあったけど、全然公平ではなかった経験則。この続きはあとに回して。

 

僕は見ての通りさぼらない毎日野郎だけど、「毎日の力」(おそらくこれが生活ということなのだろう)は全然信仰していない。継続していること自体には何の意味もなくて、継続した結果になにがあるかということに意味がある。例えば料理でいうと、どこかの居酒屋でご飯を食べたときに、このおつまみは再現できるのかという思考とか、人が僕のために作ってくれたご飯があるとすれば味ではなくどこに気を使ってくれたのかに向かうとか。これが続けてみないと分からないことであって、続けられない人を見下すようなところに向かうのであれば続けていることから享受できる効果はほとんどない。

 

いや、続けていること自体に意味があるという説ももちろん分かるし、それで自己観を保つという手段も当然ありうる。

 

で、文章もちょっと似ているなというアナロジー。僕が継続していることにはあまり意味はない。結果としては詳細を言語化できるようになったとか、タイピングがやや早くなっているという効果はあるけど、そうではなく。

 

僕も含め文章を食べる性質の人がいる。毎日書くことよりは時間はかからないとしても、毎日読むという所作もある意味「毎日の力」ではある。多くても3000文字くらいだから、おそらくどれだけ遅くても10分以内で収まるだろうけど、毎日には変わりない。

 

発想を転換すると、読んでくれる人がいるから継続しているという受動的なものではなく、毎日のご飯を作っているという能動的な所作なのだろうな。いやしかしセクハラみたいな言とか過去語りが美味しいとは思えない。いやでもずっと食べているしなぁとか。要は、僕は自分で文章というごはんを提供することを選択しているということ。感想は特に求めてなくて、お腹を壊していなければいい。なんなら実生活が軽やかになっていれば良きだけど、そこまでの作用は僕の料理にはなかろう。

 

穏やかに過ごせていますようにという念は込めてみる。

 

僕はここ以外では食べ専だし、ある食べ物に留めて感想を述べるというのはとても苦手。劇評は枠に留める文体が鍛えられた感はあるが。読み物であれば、読んだものに留めることは簡単だとは思うけど、食べ物だと自分にどう作用するのかってよく分からないし、反射的に感想が述べられるものではない。「おやすみなさい」へのコメントも記事の枠に留めた会話みたいなものではなかったような。

 

まぁ僕の文章が食べ物だとしても、好みが分からないから、正直に書くしかない。あぁ、好みを教えてくれた人もいた(冒頭文だっけか)。

 

で、もっと中身語りなのだけど、一般論を廃して本当に僕が接したいのはどういうことなのか。異性への好意は結局まぐわいが源泉にあるという一般論を前提としていたのだけど、僕は特にまぐわいを最終地点としていないし、まぐわいによって何か義務が提供されているというとも思わない。

 

たしかに、それを提供する、ないしちらつかせることでいろんな物的精神的お供えが祭られるのだろうけど、僕がしたいことはそういうことではない。ギフトカードも僕が使わないから使う人に回せばいいやというだけ。そういえば、好きな人は全然そういうのちらつかせてくれなかったな、なんでだろう。

 

僕1人あれば十分だし、切なさも好意も自分のものだし性欲も1人で解消できるし、1人で寝ることが寂しいわけでもないから、それでも特定の人物と物理的に接してみたいアナログ的感覚は何処からきているのかの考察。

 

好きな人に対してのほんとの欲望は、抱きしめて頭を撫でながらよく頑張りました、頑張っています花丸、みたいなこと。これは最初に読んだときから。僕に抱きしめられたことに効果があるかどうかではなく単に僕がしたいことというだけ。相手の世界の中の僕なぞ、そんなの僕には分からん。

 

他にも居るけど省略。

 

ヘーゲルさん曰く自己意識とは欲望らしい。

 

僕に対して何かしらの欲望が芽生えている人って居るんかな。居ないに違いない。それでいい。

 

そういう感じで世界を観ると、むしろ誰かの中に居る自分が面白い。

ちなみに僕の中に居る貴方(がた)はとてもかわゆいです。

 

能動的世界観。

 

では、おやすみなさい。