不具合

日記巡りをして目が留まるのが、僕よりも長くこの時代を過ごした人の文章だな、精神も寄ってきたのかと思ったが、よくよく考えると、時代を肉体の存在で区切らなければさらに遥かに先人の文章ばかり読んでいるという発想にいたる。この基準で言えば今の時代で先に過ごしている人も遥かな先人からすれば若者だなと。これが不敬な感覚と思われても仕方がないが、「先」という観念は時間と同じで諸々の階層があるから肉体としての年輪を絶対基準にはできない。

そもそも「先」という観念がほんとにあるのかというところまで来ている。日常生活ではそんな振る舞いはしないし、後先で敬うかどうかを決めるなんてことはしていないから問題はない。

ただ、世界文化史を読んでいて、歴史(時間)が一直線に流れているのはキリスト教の教義だという項目があって、なるほどと思った。日本は無神論者が多いとされているが、色んな宗教の教義を無意識に取り入れて基準にしているということ。年功の序列に従うのは儒教だし、使っている年号としての共通言語は西暦だし。2021年の中の一部として自分を捉えるからこそ、自分の歴史も一直線に流れゆくものとなる。確かに経年劣化は仕方がないと思うが、人の文章読んでいる限り、肉体の劣化と精神の劣化は全然連動していないと読める。一般論ではなくあくまでも当人の問題なのではという感じ。僕の精神性はあくまで新しいものを求めているし、今あるものも今までのものも通り過ぎたものとはしていない。

正しいとか努力とか、大事なものだから覚えているなんていうのは、嘘だと思っている。そんな上っ面の主観的印象を脳は加味していない。これはあくまで個人的な体感。大事でないものだっていっぱい覚えている。やっと色々見えてきつつあるという感覚。自己完結で分かった気になるみたいなことではない。内側と外側は連動している。外に挙動するというか現実的な世界の話。

哲学を読んでいると、素朴な人が持論としている精神論はだいたい突き詰めて考えて抜いて体系付けた人が居るのだなと思う。哲学とか小難しくて分からないと思っている人だって、こういった研究結果を素朴に意識としているというがとても面白く。

僕は哲学も含め、色々読むことで現実的に生きやすくなっていることはともかく、哲学とは何ぞやというと、神話というフィクションに疑問を呈することだと思われる。

神様の定義もなかなか難しいが、もともとは世界の造物主というもの。「光あれ」みたいな創世記的なこと。そういった意味で神様を信じている人は今やあんまり居ないと思うが、現代に引き直すと、依拠して良いと思い込んでいる客観的感覚だと思われる。神頼みとかはまだ良いが、流行りとかもこの系譜だと思う。あとは終末論とか。

人間は何が創ったかはもう気にしなくても良くなっているが、世界は客観的な現象によって決まっているという感覚。確かに今はマスクをしてないと出歩けないが、そんなことはあんまり関係ない。気にするべきことはそこなのか、はて。

ニーチェは未読なのだが、キリスト教に対するアンチテーゼが面白いと思った。宗教とか道徳観は弱い人が依拠しないといけないもので、この原型には「恨み(ルサンチマン)」があり、死を克服するための気晴らしでしかない、みたいな。伝聞文章だからあんまり信じてないけど、なんとなく言いたいことは分かる。

伝聞文章を書いている世界文化史の講師曰く、ニーチェは錯乱した人だと評しているのが、錯乱を世界に丸ごと投げているのであれば、なかなか素直な人なのかもしれない。坂口安吾と近いのだろうか。錯乱していない人なんているのだろうか、という素朴な疑問。

たしかに人は容赦なく死ぬし、自分もその例には漏れない。僕は死語の世界は信じていないから、死んでしまえば苦しさからは逃れられるというのも分かる。宗教の利用法って、下世話になるが、国力としての国民の道具性を自覚させないためにあったのだと思う。来世では救われる免罪符とか典型的。

無料アプリとか自分に関係ない情報を追ってしまう精神性も一種の気晴らしではある。「時間がない」というあくせくしたものを求めている。時間はちゃんと自覚的に確保しないと無為に流れて行ってしまう。僕は今のところ死んでないからそろそろ未来も加味してみるかとなった。明日の自分がちゃんと稼働することを信じるなんて、どんな宗教より宗教ちっく。

僕は世界の中で一番自分のことを信用していない。良くも悪くも。
感情を裏切る現実化を容赦なくするし、抜けているし。

ただ、読む役割として、主観的な決めつけがないということであれば割と信用できる。

精霊の守り人で有名な上橋さんの処女作を読んでいて思ったこと。文化人類学者さんなのだが、こういう確固たる地盤があるからこそ神話的なファンタジーになったのだろうなという読み方。粗さも美味しい。文化の共時性ってよく分からんしな。

僕はラノベも他人の日記も、書いた人を読もうとするから自分にとって有用かどうかを問題とはしていない。有用は経済的には効用と呼ばれるし、一般的な語彙では幸福とされるが、観察している限り、皆さらにそれを求めている感じ。食欲とか性欲と同じように外界を消費している。

でも、読む存在が世界に何を還元できるのかというのは難しいところ。

読んでしまったら開示しなくてはという衝動が起こる訳だが、これをどこまで開示して良いかも分からない。


自分の事だけ書ける人は凄いと思う。

おしまい。