めっちゃか

 

 

 

望遠鏡を持っていないから見えないものは見ようとしないことにする。

 

 

ちょっと目論んでいる実生活の発展。情報を検索している時間は情報自体に接している訳ではなくて時間をかけている風なだけ。というタイムラグの解消って、Pythonのプログラム組んだらできるのでは。法律書の新刊とか、興味ある分野の本の検索を任せて結果だけを汲み取るみたいな。次作AIとかまでいけたら重畳だが、まだアルゴリズムの入門書レベル。

 

まぁ、続けたらいつかはものになるのか。

なんとなく考え方は掴んだから、あとは実践。

 

きちんと三次元世界(インターネットとかプログラムの世界は二次元なのか)も大事にはしているから、それほど地から離れたところに精神が在る訳でもない。現実を大事にするって基本的に自分を大事にすると同義っぽく見える。どの自分なのかもよく分からないが。

 

2026年に5次元世界の住人と旧来の人が分かれるという話を読んで、1999年のノストラダムスの大予言みたいだなと思いながら、価値観の転換はたしかに起こりうる気がする。隕石よりは確率高そう。

 

5次元の条件は全部満たしているような気がして、なにやら寂しくなった。曰く、地球を楽しむこと、5次元の考え方に馴染む、あとなんだっけ。ここまで来ると星人だし、こういう考え方をほんとに自分に馴染ませている人はきっとほとんど居なくて、時代の移り目にやってくる終末思想の一種として信じたい人が多いと思われる。

 

日本史でいうと、日蓮法然親鸞の念仏思想。念仏を唱えればオールOK(専門家に怒られそう)みたいな。でも、そういう思想が救いになると思い付いた人と、それに縋るしかない人の一致があったから歴史として残っている訳で。

 

原始宗教の時代は世界がもっと解明されていない段階なのに思索だけで辿り着いた境地が今にも通じるのはすげーこと。

 

どんな思想も取扱い注意なだけで、思想自体には罪はない。

縋ってしまうと距離感がおかしくなって変なことになる。歴史で言えば十字軍とか、某新興宗教とか。

 

という感じで、僕の素朴は宗教だろうが科学だろうがスピリチュアルだろうが、参照して差分を思索しているだけで、特に何かが近いということはない。

 

なんか面白いなと思っているのが、地球で成り立っている物理的なルールが宇宙規模とか素粒子規模になると成り立たないというところ。異星人も一向にやって来ないし、何かのモデルとして形成されたのではないかという説が起こる。

 

個人的にはSFも素朴もあまり変わらない。発想によって何か運動が変わる訳でもないし。

 

本日、現代的な意味で大震災の日だったと、誰かの言葉を読んで初めて気づいた。

当時、関東から関西にやってきて同棲していた恋人さんと、テレビ(まだあった)でコマーシャルをひたすら眺めていた。

 

同情はあくまで当人の感情であって、相手を慮っている訳ではない。

ここで交換できるという思想観はアリだが、僕はそこに付き合う気はなくて。

 

まぁ、満足できるように生きれば良いとは思う。

 

あんまり書きつくると反感を買うのではないかって、徒然草を書いているときの兼好法師さんも想っただろうなぁ。と、勝手な共感。

 

幸せも充足も、要は、状態に言葉でなんという名前を付けるかであって、言葉自体に何か意味がある訳でもない。自分の状態を内省すれば、いちいち名付けていれば切りがなくなる。

 

こう見えて社交性はあります。

 

席替えの兼ね合いで仕事が終わった後に自分の席をアルコールペーパーで拭いていたら、対面の人と雑談が起こり、話すことくらいはできる。この相手、基本相手を使う人っぽいのだが、僕に対しては普通だ。なんならちょっと見下されている。

 

あと、同期はマジで目に付く。

その生き方あかんやろうって。自分が至っていないことで他人に回す動き。感謝も特にしていなさそう。世界は勝手に回っているわけでもないのに。

 

 

そこで自分を閉じるのであれば、自分の場所を踏まえないと。

 

 

同じことだが、全然別のところで、人は振る舞いで人をコントロールしうる。

 

この感覚が通じたのは哲学少女が初めてっぽい。

自分の所作で人をコントロールしてしまうことへの罪悪感で希死念慮が起こるということ。

 

心理学的な知見がない頃から、このタイミングでこう振る舞えば相手がこういう風に動いてくれるだろうなという感覚があった。母親のヒステリーの合間を縫うから、姉とか妹は怒られるのに僕はそんなことがなく、えこひいきだろうと言われる。

 

この他の関係でも、だいたいタイミングは分かるし、拒絶されない距離感も分かる。

ただ、これでやるって、相手を人とみなしていない行為であって、反動が凄い。

 

実際どうなのかというと微妙。別に僕は相手に課金させるわけでも無いし(いや、長く過ごした恋人さんには生活上でそういう風にさせたという節はある)、他の人も僕を維持するために課金みたいなところはなきにもあらずだったか。お金が関わると約束でなくて契約になると漫画の台詞であったがその通り。

 

僕は僕の素朴で居られる人がいれば良いなと思っているのだが、何か釣り合いが取れないのかもしれない。

 

何かをしたという証拠が課金だったら、それは誰にでもできることだしと思ってしまうからか。もちろん大事なことだが、あくまで手段でしかないことだから、人の価値を課金で換算しない。母親がまさにそういう人でお前に課金したのは間違いだったという印象を突き付けてくる。見切りを付けなかった自分の問題なのに。

 

はい、ここにかこつけて無茶苦茶搾取したのはたしか。

でも、報恩の念がないんだよな。いや、貴方、子供の心を自分の機嫌で滅茶苦茶蔑ろにしましたよねって。だから妹も姉も離れた。

 

想いが金銭に換算されるものとしてほんとに良いのか。

んなわけない。金銭は想いの後にあるもので、一致はしない。返ってこないと満足できないものは、

 

 

どうでも良い最後。

 

海辺のカフカ」で、プラトンの女女、男男、男女の話が出てきた。もともと人はこの三種で、神様が半分にしたから半身を求めるとか。

 

この感覚、排しても良いなと思っている。

そうじゃなくて、きちんと人として存在している人と関係したいところ。

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢を。