こんとん

 

 

 

変哲もない木曜日。

 

架空の好意は背後に生身の人物が存在する以上、生へ志向性をもつ。良い塩梅に留めることはできないかと思うが、人間である以上、動かないということはできない。植物だって内部では動いている。

 

さておき。

 

まだ一週間ほどしか経っていないが、お酒自体を欲することがなくなった。ただ、意識が途切れないというのはなかなか苦行的なところがある。世界との緩衝材のような目的があったと解釈していたが、本質は意識を主体的に途切れさせるところにあったのかもしれない。意識して生きていないということがあまりなくなり、隙間に何かできる空白の数分をちらちら見かけるようになった。意識しないで歩くってどうやるのだっけ。

 

朝の爽やかな出勤時間に、理想の自分があるとすればこの肉の器に僕ではない自我が宿ることだろうなと思ってしまった。もはやこんなの変身願望ですらなく、精神的希死念慮ではないか。それでもこのセットが自分であることには諦めなければならず、だからこそこのように生きる他ない。自分である以上、理想の自分にはなれないというジレンマ。

 

このように生きるというのは、思考を現実的に施行するということであって脳内引きこもりではないのだよな。こんな歳になって今更だが、僕は人が見ていないところの方がしっかりしている。なんで自分のことを続けられない性質があると思い込んでいたのか分からない程に、決めたことを特に苦も無く続けている。ただ、書くことって習慣にはならない。ある程度の文体は決まっているが、都度主体的にならないといけないし、自動的に文章ができあがる訳でもなく。いや、同じ時間にミルクティー準備して部屋を暗くしてキーボードの前に座るというのは習慣なのか。習慣って続けていること自体に価値があるみたいだしそれを崩されると精神が乱れる言葉っぽいから自分の語彙にはなくて。

 

どうでも良い自己発見も世界に適用されて、人にもこれくらいの見えない部分があるに違いないとなる訳で、自分が五感で捉える相手は表層的なものでしかないのではと思う。もちろん現実化はとても大事だが。

 

なんとか心理学で、自分が楽になるためには「あるがままの自分」とか「今ここの自分」を認めるというのがある。今ここは当然、刹那のここの自分を自分にとって都合良くないことも含めて捉えること。これを世界に拡げると、自分にとって都合の良い世界しか捉えないというのもなんだか違うのでは、となる。あるがままになるともっと時空が拡がって、自分の見たくない過去とか、なそうとしてなせない未来とかも含まれる。

 

この文脈で僕はもう人に優しくはなれないだろうなと昨日考えていた。たぶんその人が認めたくないその人の性質も愛でるだろうし、そうなると相手の自意識とは対立してしまうような、みたいな。

 

ちょっと話を戻して。続けられないという性質だと思い込んでいたのは、一般的に人はそういうものだから、合わせていたのだろうと解釈した。生活圏の人に、誰に見られるともなく文章を毎日書いていますとか言えないのは、読んでも時間の無駄だろうというのもあるし、遠慮もきっとある。小さい頃はもっと没頭し過ぎて時間ワープしたところがあったし、おそらくそれを本でもやっていたのだろうに、あんまり良くないことだと無意識が認識したらしい。という解釈をしないと今の自分と整合性が保てない。

 

言語との距離感もきっとちょっと違う。プラトン曰く、言語化は自分の中にあるものを外在化させることで、外在化させた後には言語化される前のものは残っていないというのがあった。確かにノートを取って覚えた気になるという感覚は理解できるが、その言語化って、中にあるもの言葉にしたものではなく、単なる情報でしかない。自分が言語化するものを自分の情報だとするならば、残らないのか、いやどうなのだろう。僕の場合、書いた方が忘れなくて、自分の中にある非言語のものを言語で型を取った跡が残っているという感じ。型そのものが問題ではなく、型を取られた何かの方を捉えている。

 

やれやれ。

 

感情を現実化させないここだけのものとして観測してみると、何かに対する欲には反作用的な方向の衝動もあり、なんというか、無秩序だ。とっさに出たものは自分とするしかないが、或る感情が優位かどうかって、その感情を出すことに慣れているかどうかでしかないような。出しても問題なければハードルが低くなっていく。その後自己嫌悪になろうがどうしようが、慣性の力が強いのは物理も精神もそんなに変わらない。

 

この流れで、精神世界に重力は在るのかという命題を考えたことを思い出した。物理的な力は働いていないから、なくても問題ないはずだが、精神世界は物理世界を基礎にしているから、天地がひっくり返ったりはしない。空は飛べることがはあっても。

 

ほんとどうでも良いことばかり考えているが、こういう思考を許容できるのは我ながらマシな精神性かもしれない。こういった思考に指向性をもたせた方がもっとまともになれるかもしれないが、それはまだ先だろうな。今のところ無秩序なままで良いとしている。

 

アウトプットと言ってみると高尚っぽいが、単なる吐き出しに過ぎないかもしれず、いつまで続くのかは分からない。唐突に継続を始められるということは唐突に終わらせることも可能なのだよな。しないことを続けるって同じことだし。

 

 

という感じで今日はここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。