厳然

 

 

 

夢に猫が2匹出てきた。むかーし飼っていた白猫と、最近ちょくちょく映像で見ているもちもちしてる小さな猫。白猫とは当時のように添い寝をしていた。毛並みがとても美しい。スキンシップに飢えている感がなくもないが、立ち読みした本の、スキンシップがセロトニンを分泌させて幸福感や安心感や安眠のためになるみたいな意味で他の存在を用いたくないな、と思う。自分の足りない部分を埋めるためではなく、自分で十分だが、他と接するのが嬉しいみたいな。なかなかの理想論なのは知っている。

 

夢が感触的にどんどん生生しくなっているのは何故なんだろう。

 

 

さておき。

 

他に依拠しない自分の心を考えたり、考えるを考えたりする。別に昨日の自分の空虚さの話も、ある意味自己完結的な意味では楽しい人生でしかない。近くに誰も居なくても良いんだなという意味では寂しい奴だが、別に他人を蔑ろにするような奴ではない。他人が嬉しそうな姿を見るのは眼福である。

 

本心って、そんなに自覚できるものなのかという疑義。本心が現実化するためにはどうなのかはよく考えられているだろうが、個人的にそれほど統一できるものではない。ちゃんと三大欲求もあるし、心を諦めている訳でもないが、結局のところ無茶苦茶矛盾していないか。ほんとは○○したかったが、▼▼だから□□をしたというとき、○○が本心だとして良いのかという話。ほんとはから揚げ弁当を食べたかったが、実際見たところ美味しそうだったから、ハンバーグ弁当にした。いや、これって行動化した方が本心じゃないかと思う訳。本心は時系列で変わりゆくものだ、という解釈でも良いかもしれないが、こういう日常の本心ではない、思想に引き直したとき、文字化できるとしても行動化されない中身は果たして本心なのか。いやそうはならない。

 

暫定的見解としては、行動化され続けたものがより本心みたいなものなのだろうなということ。ここに至ると特に本心がなんであるかは気にされない。習慣とかの当たり前の領域で、心はもっと突発的な事象において問題とされるが、いやいやと思う。続いているものの方がよほど根深いだろうって。

 

僕が書いている行為について、内心ではどっちでも良いとしても、書き続けている事実は変わらない。これは当然誰かに読まれる可能性を認識している訳で、認識した上での行為は、わざと(=読まれたい)と解釈されても仕方がないなというところからの内心論。逆に、どれだけ本心だと文字化されても、行動化されない限り外にはそれが本心かどうかなんて分からないんだよなという観念もある。

 

本心と行動を合わせるのはとても難しい。

 

だから、人を見る時に信頼すべきは行動化された現象であるし、自分のこともそういう風に見る。

 

そういえば、考えるについて考えたことについて。この難問は一生解けない気がするのだが、情報整理を外在的にするのではなく内在的にしてみるということをやってみた。法学の択一問題って、登場人物の相関と時系列によって答えが変わるから相関図を頭の中でイメージする。事実状態は刻々と客観時間で推移していくのだが、法的評価をしなきゃならないのはある瞬間というか時点。なかなか頭を使っている気分になれる。あと、見るだけで頭が良くなる、、、という表題の本を立ち読みしてみたところ、考えるの前提には「見る」ということがあるらしい。間違い探しとか、円状にことわざが並んでいてどこから読めばいいかをなるべく早く見つけるとか。ぱらぱら読んだだけだが。

 

たしかに意識的に見ないと考える俎上にそもそも上がってこないのは分かる。この「意識的に」というので面白いのが、また別の立ち読み、いやスキンシップと同じやつだったかで、ウォーキングは健康に良いが、歩くときには意識的に歩かないといけないという部分で、意識的に歩くというのは自分の体がどう動いているかを把握しながら歩くというもの。これは考えるに含まれると思う。ここからする意識的に見ることは、何かを見ようとするではなく、自分が何を視界に捉えているかを眺めるようなところにある。桜が綺麗なのは桜を見ようとしたからではない、みたいな意味。

 

何が見えるか、とか何を見続けているのかはとても本心に近そう。本心というのか世界観というのかは定かではないが。

 

ここまで全部立ち読みかもしれない。ぱらぱら眺めているだけのものがここまで言語化される模様。

 

それでは、立ち読みでない話。

 

メディア論はほんと面白くて、鳥肌が立つくらいの読み物。書物メディアの話は昨日も書いたが、活版印刷というグーテンベルクの発明とカントの理性論への流れがなるほどなと思う。曰く、印刷技術が流通して書物としての読み物が拡がることにより「公衆」という概念が生まれ、公衆を正しく判断できる普遍的な人の能力として、「理性」という概念が発明されたとのこと。要は、公と個人の理性は連動しているということ。

 

たしかに、個人を考えるためには個人ではないものが前提とされているのは論理的に考えれば当たり前なことだが、個人的にはカントさんってもっと個人に傾注した人なのだと思っていた。でも時代背景からすると、ドイツ国民の人格レベルを上げるための文章だったらしい。まぁたしかに啓蒙精神みたいな崇高な目的がなければ、現在でも読めるような一大哲学理論を作るようなエネルギーは生まれないかという当たり前に気付く。

 

理性が日本語になったのはいつのことだろう。

 

やはり、僕は世界の事を何も知らない。

 

世界文化史はイスラームになったのだが、そういえばコーランは読んだことないなと気付いた。なんとなくこの宗教は苛烈だと思っているから疎遠していたのは自覚的だが、語源が「読むべきもの」ということだからそろそろ読まないといけない。エドガー・アラン・ポーも読み終わったし。普通の文庫本で売っているのかは知らない。

 

ちょっと考えると、法(ルール)を厳粛に考える宗教観なのかな。これは人は不自由を求めがちという素朴な感覚とも一致するから読んでみたい。女性は外では肌を隠さなきゃいけないというルールがあったような気がするし、これは日本圏からすると違和感があるが、ただ、どんなルールだって外から見れば恣意的で独善的ではある。日本のルールもよくよく見ればそういう部分はいっぱいある。

 

まぁこの前提ルールがなければもっともっと考えないといけないから、社会的な思考コストが省エネになるのは確か。僕は宗教においてはその宗教観の外に居る人をどう扱うかを問題としていて、十字軍のキリスト教もジハードのイスラームもあんまり好きではない。原始仏教は内内に向かっているから好ましくはある。

 

どうでも良い話で収めるが、僕の方言どこに行ったのだろうと思った。仕事ではいっぱい話しているし、地元のイントネーションが出てきたら懐かしいなと思うが、僕の素朴な発話って、もともと良く分からない。発話の機能を考えるとそうなってしかるべきか。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。