誤解

 

 

 

変哲もない休日出勤。しかし、なかなか凄い1日だった。

 

 

まず夢に、長く過ごした恋人さんが出てきた。ここにはよく登場しているが夢には出てこなかった。遂に整理対象になったかという感じ。別に直接会話はなく、人伝にというシーンを俯瞰で見た。架空の北海道の集落に居るらしく、「まずは電気を引きたい」とのこと。きちんと自分を生きているのだなとほっとする。

 

ところで、昨日の好きの話だが、僕の好みの女性のフォルムはこの人によって形成されたのだなと思った。いやもともとは僕が小さい頃、比較的に体格が圧倒的な姉に物理力で虐げられたことに対する反発というか逃避に淵源があるのかもしれない。小柄で細身だが、骨ばってはないという感じ。たしかにちょっと一般的な体型からは離れていたような。変な話、相性も良かったと思う。

 

まぁ姉に対しては、いつの間にか追い越してしまい、だからと言って逆襲することもなかった。自己評価でお酒強いって言ったから、一緒に飲んでいたら潰れてしまって、ちょっと溜飲が下がったのは秘密である。

 

体型でいうと僕のフォルムもまぁまぁ一般離れしている気もする。なにせ肉がほとんどつかない。そもそもそんなに食べない、ということでもないのだが、バランスは採っているか。お酒は毎日飲んでいるが、エンプティカロリーだし。

 

これを言うとアレだが、唯一フォルムに関して僕に対する劣等感を感じなくて済んだのがこの恋人さんだったというところで、まぁまぁ気楽だったというのはある。僕と比べてもしょうがないと思うが。ただ、肉体的なカタチよりももっと興味を引く体があるから、そちらの方に目が向くようになってきている。どれだけフォルムが完璧な人と接してもナカの体が好みでなかったら間違いなくつまらない。

 

 

 

夢が終わる頃。土曜日出勤なのは知っていたが、アラームが土日に鳴らない設定にしていたことを失念していたため寝坊した。10分ほど。平日も基本的にアラームの前に目覚めているし、アラームは起き上がるタイミングくらいでしかない。遅刻はしなかった。時間の概念と仲良くなっている。内部の時間をきちんと厳密にしていると社会時間に合わすのはとても簡単。中の方がシビア。

 

 

で、仕事はとても暇だったため、先生との雑談が捗る。

 

やっぱり、この人の思想背景好きだわ。

めっちゃ愚痴っていたが、理由がきちんと整理されている。学者的な思考方法なのだろうな。

でも、こういう人であっても僕の発言は聞き返されてしまうことがあるという。笑

 

ここで一般化するのは悪手なのだが、なんとなく人が語る人像って自分が基準となっているのだろうなという感じがした。こういう人だったらこういうことが分かるとか、抽象的に語られる人間観。

 

銘記すべきは、「当人には言わないが、他の人に愚痴る」という発言。

当然の推論として、僕も先生からすれば愚痴の対象なのだろうなって。何かしらは言われているはず。これを自分に直接言われないから世界は変わらないとするのか、どこかで言われているという意味で不安になるか。僕は後者の思想だったのだが、今はぶっちゃけどうでも良い。

 

考え方でも、やんわり親和性がある。

「日本語は受け手主体の言葉だ」という発言は、僕のぼやぼやしている像を可視化してくれる言葉だった。たしかに。

 

どれだけ丁寧に詳細に書いたとしても、主導権は読み手にあるのが日本語。

LINEで送ることにもびくびくするというのも分かる。僕はチャット形式で自分の文体を現すことができないのを自覚していたのか、スタンプで丸投げしていたな。好きに捉えて下されって。

 

先生も、日本語の曖昧だからこその美しさは好きとのこと。

良いと思います。ただ、伝達として扱うのであれば通じてこそなんぼだとは思われる。問題は通じなかったところの空白に対して当人の中で埋める言語があるのかどうか。

ナカにきちんと在るのであれば、それを発するかどうか当人の任意的な選択でしかない。

 

 

昼休みは雨が降っていたため休憩室で画像を撮影しつつ弁当を食べる。

そこで読んでいたのはハリーポッターなのだが、ちょっと遡り。

 

朝読んでいたヲタク漫画。ヲタクは好きなものを人に上げたくなるというフレーズがあって、僕はヲタクではないな思ったのだった。紹介した相手がそれを好きになったとしても、僕の「好き」とその人の「好き」は別のものだから仲間ではないんだよな。細かく知っているから好きが重い(高い?)訳でもないし、程度で測るという意味ではリア充指標とあんまり変わらない気がする。

 

(先生が共産主義キリスト教は敵対しているが根本は似ていると言ったことを思い出した)

 

そうして、リブロ。1冊20分くらいで立ち読みした。本を読むことにおいて時間軸がずれていると思うのはともかく。「賢者の習慣」という翻訳本。前にもちらっと読んだ気はするのだが、昨日自分が書いた文章と同じようなことが書かれていた。時間軸がおかしい。

 

曰く、頭の不調の状態をまずは捉えようとか、継続するのは意志の問題だとか、古典を読めとか。

 

僕は頭の状態は現在進行形でどんどんクリアになっている。これは一般論でいうところの、知識を収集する時間量=努力という固定観念から離れたから。小中学の頃は勉強時間は考慮されなくて良かったのだか、高校になると、プライベートをどれだけ勉強に費やしたのかを色塗りして提出しないといけなくなった。嘘で塗りたくる。そんなことより概念を考えることが大事で、どれだけ時間をかけるかなぞ些末。時間かけたら良いって、時給制の仕事をこなせばそれで対価あるの同じだが、知識を対価にするのであれば時間とは比例しない。

 

好きだなと思ったフレーズ書き出そうと思ったのだが、編集していたら取り逃がした。

あとで出てくるかな。思い出した、「文章こそが、その人、その人生」。

 

自分で考えるようになれるためには、書くことが必須だという章があった。日記を書いてもそれほど進めなくて、日誌を書くべきだとか。ここで書かれているところからすると、僕の文章は日誌寄りだと思う。

 

日記と日誌の違いを言語化できるかという問いは、当人の言語水準が測れるかもしれない。

日記は、あくまで私、私、私、だが、日誌はもう少し世界が広くなる。

 

あくまで自分にとってどうかという枠組みなのが日記で、日誌は自分から離れたことも記録される。ニュースではなく。

 

あぁ、好きなフレーズもう1つ。

「思索するほど幸福になる」

 

まさに僕はこれで、考えられるようになったから満足が生まれている。

自分を毎日使い切っていると書くとしんどく見えるが、きちんといまを過ごすことが人生舞台の中の満足であるというだけ。

 

考えられるようになるためには、読むことと書くことが継続されなければいけないという賢者の発言をモノサシにすると、僕はここ何年もそれを続けている。これが意志だったのかというと、僕は意志という言葉を自分の辞書に入れていないし。

 

たしかに、考えることが時空を超えている感はある。

自分の物理とか属性を着地点として考えることは思考ではない。断言できる。まずは人間として独立してからの話。

 

ここで「文章とはその人」を持ってくる。読書論で、この本は人が書いているものであるということを考えることが肝要だって書かれていたのだが、たしかに物語を娯楽として消費する際に作り手は意識されない。

 

こうやって度外視できるのが人間のバイアスというか、考えることの省略だろうな。

脳はなるべく考えたくないのだと思う。僕は酷使させているが、もともと酷使もたいしたことはないらしい。怠け者かよ。

 

個人的に、一般的に言われている学習機能より全盛期だと思うのは、書き続けたことによって、自分の洞察が言葉で捉えられるようになってきていること。発話として表現できない現象って日常的に体感されていると思うが、そういうことは言葉という網がないと掴めなくて過去に埋もれてしまう。

 

この意味で言葉を扱っている人は世の中にあんまりいないと思っている。

 

「熱帯」の話は省略。

 

凄くどうでも良い話だが、宵顔さんらしきアクセスが増えるのはなんなのだろうな。

可能性としては色々あるし、違うかもしれない。

 

私信を送りたい衝動が半端ない。

どうして貴方はそんなに僕にとって可愛げがあるのですかって。

 

物語の続きが面白くないという指標は僕にはない。

面白くなかったとしたらとっくに淘汰されているはず。

 

まぁまぁ酔っぱらいだが、送らないと決めたから送らない。

 

まぁ宵顔さんについては次の現実まで保留。

僕が好きになったことは僕にとって得になりそうだからではないから、裏はどうでも良い。

 

 

はい、おやすみ。

 

良い具体的な何かを。