とっとと来る年

 

 

後編。

 

あけましておめでとうございます。

 

今年もよろしくと言えそうな継続的な関係がある人誰も居ねえや。僕を余白に置いてくれるのであれば今年もよろしくです、というニュアンスしかない。

 

挨拶好き。

 

 

飲んだくれでございますが、ほんとに潰れたら日記は書けないからまだセーブされている模様。(いや何本目だよ、9?)

はい、そろそろカウントダウン、とんとんとん。

 

過ぎることと来ることについて。

 

この概念って、忘却する脳機能とセットな気がする。

 

では、そもそも忘却とはなにか、自分の人生の過去に覚えていることはあるのに未来を忘れるのは何故か。

 

僕の主観的世界なのだが、僕は全然忘れてないし経年劣化もなくむしろ今が全盛期。

まだ、父親の携帯番号を思い出すまでには至らないけど。外部媒体の電話帳に記憶させる機能も無かったし、自分でそれを押したり回したりするのだから、思い出せないことはない。

 

人は記憶力とは別のところで覚えているものがあるというのは当たり前の世界観。

 

これってなんだろうなとずっと思っていたのだが、おそらく「世界として新しい現象」で良い。新規の情報でも自分の世界にとって新しいこと(人)でなければスルーされる。

 

世界を楽しめないのは、既知の外の未知の取扱いによる。

 

来年はこれをすると百個くらい綴っている人が居た(その中に愛媛に行くというのがあったのはなんか嬉しい)。ただ、何かすれば何かが変わると思っているのはやや安易な感じ。するに越したことはないが、する自分が変わらない限り、何処にも行けないような。

 

 

どうでも良いが、本を読むのにもコンディションがあるのが分かってきた。

空っぽで読んだ方が残る。新規情報として読む。というか、小説はどれも新規でしかない。

 

これは人に対しても言えて、どの人も新しい人だったから、だいたい関わった人は残っている。これを当人と共有したい感はない。人は類型化できないのが何かズレているという評価だったのだのだが、省エネしてないだけだった。

 

僕は誰かに本音を語るということに意味を置いてない。何かの本音が抽象的に在るとして、それを話すためには言語として共通項に落とし込まないといけなくて、言葉として落とし込められたことが当人の本音になりうるかというと微妙なところ。

 

これで言ったら、本音は当人の言葉の前に在る。

 

言葉は虚構であるという好きな人の言葉はある意味真理。

 

意識を言語で捉えるならそうだし、言語と当人は因果的にはあんまり繋がっていない。

でも承認は嬉しいのか、演技を賞賛されるのと同じ文脈?

 

芸術に含まれる創作としての文章は当人を剥き出しにしたなりふり構わない何かを文体に落とし込んだ狂気の所業な感じであって、意志で操作していることはなさそう。

 

1つの仮説。

 

僕の存在を覚えてくれている人って、僕のことを新しい人と認識した人ではないか。

 

ここまでにしことう。

 

では。

 

良い今年でありますように。

 

 

おやすみなさい。