夢がひたすら永い。実家をモチーフにした催しものというか、お祭りがあった。外観よりも中は随分大きくて、銭湯みたいなスペースもあったり実際にはない小部屋のスペースもあったり、混沌としている。知っている人とか知らない人とかたくさんの人が出てきた。どういう情報整理だろう。次のシーンは職場の上司が出てきて、食べ歩きみたいなことをしていた。全然知らない土地で、そこでは上司は飲食店のオーナーで、「山しずか」という名前だった。夢の中に出てくる文字をこっちに文字化できたのは初めてかもしれない。文字を一番意識して読んでいるのに、夢からは全然持ち帰ってこられない不思議。過去の整理でもなくなってきている。

 

別に心地よいとは思わないが、何が展開されているのかという意味では楽しい。

 

さておき。

 

本格的に世界の色が多くなってきたから、ほんとにちょっと遠出しようかと思った。休憩時間にユニクロに行き、春っぽいリネンシャツと薄手のパーカーを買う。弁当も作ろうかと思ったが、きっとそこまでの時間はない。コーランも手に入るだろうし、一石二鳥。

 

この時勢にどうか、という文脈はあんまり関係ない。人に会う訳でもなく、単に電車に乗って公園を散歩しに行くだけで、外食もする気はない。今でも会ってみたい人は1人だけいるが、この人は会えない人だからカウントされない。

 

そういえば、昨日、母親から着信があって折り返した。まぁ心配されているのは分かるのは別に良い。ただ、完全に伝達メディアに汚染されている感じがある。自分は自粛しているのに、自由に動いている人への不満が、感染した個人がどうのではなく、いじめみたいな領域になっている。ざまぁ見ろなんて主観では思っているなんて決して言わないだろうが、なんで自粛しなかったのだって非難が先に来る。わが身に降りかからないことが前提。まさに公衆に監視される監獄的な社会。

 

こういう感覚も分からなくはないのだが、僕はどちらかというと、当人が主張している思想と矛盾していることに非難が向いてしまう傾向がある。言葉は確かに1つの事実だが。まぁ良いや。

 

切り替え大事。

 

BGMで流している歌詞に、「大人になると生き方が雑になった」みたいなフレーズがあって、僕は逆行しているから気付いたのだが、大人の定義の中には、知らないものは知らないものとして流してしまうという、スルースキルがある。

 

たしかに世界は大人になればなるほど拡がるが、それがどう構築されているのかなんて気にしている暇はないとされる。暇は在るものではなく作るものであるし、僕は自分が気になったとっかかりを見落とさないように意識している。かなり無駄な労力と思わせて、頭の中の話だし、なんなら事務処理能力の向上に繋がらなくもないから、現実的な効用もある。

 

という感じで、「人類と哲学」の2周目。人に監視されるところからAIに監視されるようになったのが現代だという冒頭。ところで、「AI」って何の略だったかということをスルーしない。和訳の人工知能ということは知っていて、知能=intelligenceというはすぐ思い付いた。しかし、人工ってなんだっけというしばらく他の本を読みながら考えて、artificialだったかとたどり着く。

 

ここまでだと単なる知識だが、連想。対義語の国語のテストで、自然の反対は人工だったことから引っ張ってきて、art=芸術ってもともと自然美に対する人工美だったのかなと思いつく。造花とか庭園とかまさにそんな感じ。人は自然に対抗するために芸術を生み出したと考えると、めっちゃ意識しているよなと思う。黄金比も自然から持ってきているし。

 

閑話休題

 

来週から、職場で席替えになる。首脳陣の意図はだいたい透けているのだが、上司のもう一人の女性と仲良くさせるために、雑談ゾーンに配置された。もしくは雑談をあんまりさせないようにとか、雑談の中で知識を吸収しろということなのか、色々と解釈はできるが、僕はこの女性の上司の発話が全然好きではない。いや本当はどうか知らないから暫定だとしても、見下し傾向にある。まぁ話してみないと分からないか。

 

もう少し観察は続いて。ねっとり話す後輩さんの挙動。仕事時間が終わった後、自分の席替え先の席を念入りに除菌シートで拭いていた。この席はもう1人の後輩さんが座っていた席なのだが、よほど生理的に受け付けなかったという説もあるが、むしろ、すげー自分のことしか考えていない人なのだろうなという解釈の方が強い。

 

ちなみに僕は念入りに自席だけ拭いた。全然綺麗好きではないから後を濁さないように。

 

こういう標準で人をスルーしない感覚はちょっと面白いな。自分のために有用な挙動としての親切心は全然暖かくないか。

 

人のことを慮っている風な語彙はちまたに溢れているが、ほんとうにそういう挙動ができるひとはなかなかない。

 

僕は自分を他者と認識している人には興味がないのかもしれない。

 

2年後に行こうかと思っているところは何年も音信文信もしていない友人の土地なのだが、たぶん覚えてくれていると思う。誰も僕のことを知らない土地の方が良いのかもしれないが、なんとなく直感してしまっている。まだ会って話せることがありそう。

 

ミクシィで、語句検索して日記を眺めている中に、スピリチュアルなのかどうかはともかく、意識の3段階みたいな話があった。潜在意識と、まどろんだ意識と、自覚的意識。

 

はい、強制終了。

 

おやすみなさい。