あたまのよはく

 

 

細分化された日曜日。

 

 

天には白く鋭利な三日月、地には蔓日日草。上手く本に没頭できた日は頭がすっきりして世界が細かくなる。ちょっと歩いただけだが知らない花をたくさん見かけた。

 

朝起きて、洗濯機を回しながらチョコをひとかけら補充し、コーヒーを飲みながら本を読む。債権の概念は面白い。抽象化していて難しいと思ったが、よくよく見ると現実の結晶化みたいなところがある。まぁ普通に生きていたらあまり関わりがない領域かもしれないが。

 

そうこうしているうち、早いうちに「ニューロマンサー」と「数字で読む会社法」が届く。会社法の方は届いてすぐ1章だけ読んだ。これも、あんまり現実生活とは関係ないが、個人的な食べ合わせが良い。ニューロマンサーはお風呂で読む本入り。新刊枠が読み終わったのでちょうど良く収まった。千葉が出てきて、え、こんな話なんだ。楽しみである。森さんの新刊も発売されているらしく、SF続きだ。

 

昼過ぎにご飯を炊きながらコンビニに牛乳を買いに行き、帰ってきて温そばを作った。長ネギとしめじと卵。ご飯は塩昆布をかけた。その後も少し休憩して読書タイム。しかし、生活上休日でも本を読むだけということはできないから、より早く没頭に至るようにならないといけないのだなと思った。BGMはジブリとか癒し系のピアノにしたが、なかなか捗る。

 

専門書は知識を詰めるというより頭を使うことに重きを置く。結果的に知識もつくのだが、知識は持っているだけだと頭が重くなるため注意が必要。ただ、頭を使っていると、すっきりした空白で全然関係ない思考も回るため、どちらにせよ大変というか、ややこしい。

 

ちょっと考えていたのが、記憶と感情の相関。覚えている何気ない日常って内部で感情が動いたときなのだろうなと考えた。僕は外に、ひいては誰かに自分の感情を表出することってあまりない。いや、感情が分かり易いと言われたこともあるが、少なくとも表情にはあまり出さない方だったはず。でも、自分の過去を拾っていくと割とどうでも良いことが残っているから都度動いているのだとすると、なかなか面白い。面白いのは、あんまり顔に感情が出ない人を好ましいと思う理由がちょっと分かったなというところ。感情を表出することが苦手な人が乏しいとは限らない、むしろ中ではたくさん動いているかもしれない。

 

あとは生身のパートナー論。これはここ何日かずっと片隅で稼働している思考。

 

ところで。

 

書いていて、なんだか自分の文章、若干物語くさいなと思う。物語として成り立っているというより、生身っぽいというか言葉が他人事寄りではないかと。正味のところ、生身と文章体は中身においてはほぼ一致しているが、書いていないことももちろんある。例えば生理現象とか。枯れれば良いのだが、健康な住生活だから仕方なかろう。りっしんべんな生活はない。

 

書かないこともあるし書けないこともある。書けないことは書くと文字数が凄いことになる専門領域のところ。上澄みだけ書いても意味が分からないだろうし、ある程度やってみないと面白さが分からないし、文章だけで面白さを伝えられるほどの表現力はない。今日読んだ三平方の定理の証明とかめっちゃ簡単で面白かった。

 

やれやれ。

 

凪いでいるし楽しんでいるのは1人になったからと考えていたのだが、おそらくそうではなく割と自分に成れてきたからと思う。世界と自分の誤差を腑に落として、自分の動きを優先する。迷惑がかからない範囲で。

 

というところから、生身のパートナー論。僕はパートナーに何かして欲しいこと思い浮かばいのだが、手の届く範囲で居た方がいろいろできるよなとふと思う。別にいやらしい意味ではなく、ご飯を作ったり元気なさそうだったら撫でたり、そういう現実的にできることのこと。別にしてあげたい、施さないとどうしようもない感情でもなく、別になければないでしなければ良いことなのだが、双方向ではない想いというのを留めるのはなんというか精神衛生上よろしくなさそうだなと。

 

ただ、現実的な生活上の行為って、誰かがやってくれた自分はそれをしなくてよくなるわけで、ある意味機会を奪ってしまうことにもなりうるよな。しようと思っている人にとっては。まぁ、だいたいは怠けたい人が多いのだろうが。あと、頻繁に連絡を取るとか今さらできないかもしれない。いや割とマメな奴だからそうなったらするだろうな。

 

さらに突き詰めていくと現実は無関係でなんらかの意味で双方向であれば良いというまた非現実に逆戻りするのだが、よく分からんな。

 

求める程ではないが、在ったら楽しむだろうなというくらいだったら求めていないのと同じとも言える。

 

そろそろ時間だが、「脳は私ではない」で、人の性格はその人の経験から意識した性質によって形成されているみたいなことをフロイトさんが言っていたらしいが、この自分の性質って経験から形成されているようにはあんまり思えないところ。いや、そうでもないのか。僕はしてあげるという感覚は嫌いだ。

 

明日から先週より30分早く起きなければならないため、この辺りで切り上げよう。

 

文章体と中身は一致していると書いたが、僕はそれほど言葉には依存しなくなったかもしれない。言葉でしか挙動できない領域があることと、言葉に期待することは違う。人の中身は言葉で表現し尽くせるものではないから、自分の気持ちが言語化できないなんて当たり前。

 

では、おやすみなさい。

 

良い夢を。