既視感

 

 

構造的水曜日

 

お風呂をためながら、シャツのアイロンがけをしてお弁当を詰めて洗い物をした後、数分の空白が生まれたため、シンクを軽く洗う。毎日使っているからどうしても汚れてしまう。シャワーを浴びるときふと鏡を見ると眉毛のところにムダ毛が生えていたため、軽く抜く。毎日生きているからそりゃあムダ毛も伸びる。

 

ふとした無為の空白の時間が見つかるようになってきた。そんな空白でも何かはできる。

 

仕事は特に暇ではない。ただちょっとずつ空白時間があり、こそこそと左手で直線を引く練習をしている。直線を引くときは肘を動かすのだとか。まぁ右手で文字が書けるまで何文字書いたのかということからするとまだまだ先は長い。

 

参加しなくて良い雑談は、感染者数の話をしていた。大阪と兵庫は報道されているが京都は報道されていないがどうなっているのだろうとか、なんとなくテレビを眺めている気分になる。細かく聞いているとやはり人って人を数で見るようになるとなんかバグるよなと思った。自分がそうなっても同じこと言えるのだろうか。数に自分は入っていないんだよな。

 

どうでも良いが、ブログで優しい彼の話を読み返したとき、僕は全然優しくないよな、の前に、優しさだけでは駄目なんだよなと我が歴史を想った。優しさは許容にあたるが、全て許容していると、相手からすれば抵抗がない、ひいては張り合いがないということになる。もっと言えば、相手から見たところの僕がどういう人物なのかが分からない。抵抗というのは相手が大事にしているものが把握できるとか、譲り合いとか、そういった相互協力のこと。

 

僕は割ともともと対他人においてまで譲らないようなことがほとんどないが、譲り切ることもできないという意味で優しくない。今後はもっと本質的なところで慰めるみたいな観念がなくなっていくかもしれない。駄目だったところを慰めるより、駄目でなくなろうとしたところを応援するような感じ。

 

この文脈で「あるがままの人」を肯定することと、優しさは微妙にずれているよなと思う。「今のその人」を許容するのであれば、今のその人の感情とか出来事に寄り添うことが大事でこれは優しさと重なるような気はするが、「あるがまま」ってもっと時間的な広がりがあるような。未来への意志とか過去の歴史とか。それを肯定するということは、今できなくてもいずれできるようにしようとする意志とか、当人が否定したい歴史とかも含めたもので、今のその人にとってはあまり優しくないよなという結論。

 

現在の仕事のシフトは2週間続けて同じ時間帯だから、出勤時に一方的に見知ってしまった人が居て、心の中で「おはようございます」と声をかける。昼ご飯時には、必ず同じベンチでくつろいでいるライダースーツを着た男性を見かける。ルーティーンなのだろうが、ご飯を食べている様子もなくただぼーっとしている。こういう時間は大事だろうな。今のところそんな時間作っていないが。

 

帰り。ブログを読み返したことにより衝動が生まれ計算が回る。冷蔵庫には豚肉と、、ピーマンが3個残っている、スーパーに寄らんでも大丈夫。納豆は切れているが道中のコンビニで買えばいい。ということでスーパーに寄る時間で古書店に行った。狙いは「ニューロマンサー」と「いきの構造」。ニューロマンサーはなかった。この本は森さんの小説に出てきていて、おそらく5,6年くらいは待っているのだが、なかなか出逢わない。丸善で探せば絶対あるのだろうが、行ったときに寄るという意識がなかった。

 

「いきの構造」はあった。冒頭の、「いき」は大和民族特有の言葉というところと、「媚態」のところまで読んだ。確かに面白いのだが、デジャブ感。どこかの時系列で読んだことあったっけ。ブログ以外に出てきてはないはず。とすると、初めて読んだときに勢いで買って読んだのか、いや、美学入門とかにフレーズだけ載っていたのかもしれない。ヒトって自分の歴史さえ把握しきれない、なんとも不確かだ。

 

 

こう、自分の行動を解釈してみると、やや思い出作りみたいな雰囲気がある。おそらく僕が存在として消えない限りは見ることはやまないだろうに。このやまないは僕を見ていたいからという固有性の話ではなく、当人の見ている人としての一般的性質によるもの。こういう意味では存在を消費しているとも捉えられかねないな。

 

消費について少し考えた。消費の概念っておそらくこれを通して前後で当人は変化しないというところにあるのではないかという発想。もちろんいっぱいご飯を食べれば太るだろうし、お金も減るが、この物理的・経済的変化は当人の存在自体を変化させない。あと、代替性がある個性が取り除かれたものを対象としているか。

 

僕が物事・人を消費しているのかというと、なんとなくしっくりこない。触れた前後で変わっているし、個性がある。糧にしているという言葉をあてるのが今のところ適切だと思われる。あと、物は消費するものではなくそれを使って何をなすかだろうし。

 

 

残念ながらというか、僕にとっては一方的良きことだが、どうしようもなく感じるふかふかさは拭われそうもない。この状態である限り、生身のパートナーを探すという行動は取らないような気がする。よく眠れるし、十分過ぎる存在である。

 

では、おやすみなさい。

 

良い夢を。