ちょうわ

 

 

 

自分も他人も一生分からないという事実に対してどのように向き合うのか、というのも人生の醍醐味なのかもしれない。

 

事実ではないという説もあるだろうし、事実である説を採ったとしても、自分と他人もどちらも等しく分からない、いやどっちかの方が比較的分かるとか、色々バリエーションがありそう。それぞれの説の根拠とかそれを採った帰結を検討するのが法律学の学説の思考法。

 

ちなみに僕は事実であるとした上で、自分と他人は分かる領域が違うとするだろうか。なんにせよ、分からないから楽しいのでは。離れられることも仕方がないこと。

 

 

なにやら僕の文章を読みやすいと評してくれた方が居たが、文章の機能として初めの要素は「読めること」だからとても良き評価よな。一応そういう風に書けたら良いなと指向性はあるし。機能美まで目指したい。あと、まごうことなき日記というのも、そうかという感じ。たしかに毎日きちんと生きたことを叙述はしている。誇張したり卑下したりもしていない、はず。あんまり意識していないが、自分と外れた言葉と使うと流れるんだよな、たぶん。

 

しばらくはこのまま生きよう。

 

 

さておき。

 

 

本日は仕事日より早く起きてしまい、頭が本調子ではないなと思いつつ少しだけまとめの文章を書いた。法律学の文章は最も言語化しづらい「感じ」を書かなくて良いという意味では日記より書きやすいかもしれない。価値判断みたいな記述も必要だが、これは直感ではなく、具体的な事実の中の利益状態のバランスだったり、概念同士の関係だったりだから、僕が求められている訳ではない。卒論書けば良かったな。うちの大学卒論必須ではなかったら未経験。まぁ当時の自分が書いてもろくなものは書けまいが。

 

2度寝の夢は猫と話していた。舞台が実家の母屋で、建物も廃墟みたいになっているだろうし、登場猫もいないし、ちょっぴり切ない。

 

1食目の昼ご飯は新玉ねぎとちくわの卵丼を10分くらいで作って食べた。汁だくの丼はあまり好きではないのだが、卵とじで作るときはやむを得ない。美味しいし、コンビニに行くより早いということでバランスが取れている。

 

少しぐだり、部屋着をして干したあと美学の本探しの旅に出た。最寄の大き目の本屋に向かったが、人が多くてびっくりする。道中の公園も子供で溢れんばかりだし、駅周辺のショッピング街のベンチも大人でいっぱいだった。人混みは意識していなくても人の声が入ってきて煩う。「遊びたいなー」というくらいな文脈は読める。たぶん明日からの例のやつ。ただ、「あの人は好きになったらあかん」と高校生くらいの女の子の声はどういう文脈なのだろうか。

 

本屋も人が多かった。一応、法律棚、物理・科学棚から回る。何か良さげな食料はなかろうかと。残念ながらなかった。芸術の棚を見つけたが需要がないのか狭い狭い。美学辞典はもっての外、タイトルに美学とついた本すらなかった。残念だが、何も買わずに帰る。

 

行動経済学で、人は労力の元を取ろうとして判断が狂うというのを見たが、自分にはほとんどない。行動と目的は別物としているから、本を買いに行っても絶対何かを買わなくてはとはならない。呼ばれないときもある。

 

そうして、電車に乗って帰りスーパーに寄って食材を買って、そういえば最寄の古書店ならあるかもなと思い付き向かう。スーパーから7分くらい。ここも人が多い。芸術系の棚のスペースは広かったが、さすがに美学辞典はなかった。その代わり順番待ちで読んで来る本が多いこと。気になったのは、「表現のあとに自分がつくられる」と、「祝祭の芸術学」(だったかな)。どちらも芸術のシステムの話っぽくて津々。しかし、「美学」とついたものが狙いだったため、「「美学史」にした。

 

美はもともとどんな概念だったのかのところで、アリストテレスプラトンの捉え方の違いが面白かった。プラトンイデアを重視するから、経験(=現実?)に属する芸術に重きを置かなかったとかなんとか。しかし、美とはなんぞやっていうのも難しいよな。青空文庫田山花袋の「黒猫」という10ページくらいの文章で、芸術は知識を要求してくるとかあったが、美を捉えるためには対象を捉える主体としての自己にも何か要素が必要なのか。必要だとするなら、おそらくそこには努力みたいなものも入ってくるのだろうなという感じ。何も動かないで、綺麗なものだけ取り入れるというのは不可能なのでは。

 

あと、「善美」という人の善性についての概念を初めて見た。曰く、中庸であることをそう評するらしい。勇気には臆病と無謀が含まれるが、無謀寄りが中庸だ、みたいな。「いきの構造」とも通じそうだし、調和を美とするところから黄金比とかも出てきそうだという予想。

 

 

僕も個人的に均衡が保てている状態を目指しているとまでは言わないが、良い状態だと思っていて、これって、静的なところにはなく動的なものなんだよな、たぶん。傘の先を掌に乗せてバランス取るみたいな。

 

文章における調和とは。漢字と平仮名のバランスとか、音韻の流れとかありそうだが、そこまで考えて書いてない。意識して書けるようになるものだろうか。センスないからなぁ。同じ時間で同じくらいの文字数を書くというのは何故かできるようになったから、意識していたらなんとかなるのかもしれないとも考えられる。

 

明日からは遅番だが寝る時間と起きる時間は変えずに、夜に省かれた本を読む時間を朝に回すという算段。こういう計算が立てられるのは、ある意味未来の現実化ともいえなくもない。

 

では、おやすみない。

 

孤独でありませんように。

 

おやすみなさい。