脳と私

 

 

本を読んでいると物理的に頭が痛くなるときがあるのだがそろそろ血管が爆発でもするのだろうか。水分不足かしら。

 

 

本日は髪を切りに行った。ちょっと早かったかもしれない。次に切るのはいつにするか微妙なところ。切ったばかりだとさっぱりしているけど、馴染むのは少し伸びた後。まぁ考えよう。店員さんとはまた面白く談義した。ほんとに楽しそうにしてくれる。たしかに人と会うのは楽しいことだな。分析してみると、おそらく素朴な一体感というか自分は独りではないという感覚を得ることができるから。人に会えないことが苦痛になる人の気持ちも分かる。

 

ただ、こう店員さんに対してすら、自分はそうではないと思ったことに対してスルーしてしまう傾向も見て取れてしまう。今はゲームする時間がないですよねと同意を求められてそうですね、と答えた。ゲームはしたいけど他にすることがあって時間が取れないということだろうけど、僕の中での厳密は他にすることに時間をあてているからゲームをしたいとも思わないし、ほんとにしたかったらするだろうとなるから、時間がなくてしていないとはならない。ゲームをしていないという現実は一致しているから別に訂正したいとも思わないけど、同意型で発話する人はちょっと苦手かもしれない。グルーミングとしては分かるが。

 

自分の認識と誰かの認識が一致していることってそんなに大事なことなのだろうか。事実を共有する、うん、分かるけど、その時空において何を見て残すかって個体差があるから共通項より齟齬を許容できるかのような。

 

予約した時間が早かったため、そのまま買い物して帰るのではなく寄り道した。電車に乗ってお買い物。なんだかんだ人は多い。やっとのことで緑色のリュックが見つかった。ブランドもよく分からないけど、ピンときたので即とは言わないけど購入。一応他も回ってみて帰ってきて。あとはマフラーだけど見つかるかね。だいたいイメージは固まっている。

 

もちろん本屋さんにも寄る。芸術と脳の本が終わったから後釜のため。面白かったけどもっと踏み込んでくれるのかと思っていたのにちょっと違った。脳が世界をどう認識するかと芸術は相関しているという発想は美味しい。昨日の日記で教育学が出てきたから入門書でもあればと思い教育の棚に向かう。残念、教育論はあっても教育学はなかった。この本屋さん最近だいたいこんな感じ。刑法の本も第2版出ているのに1版が置きっぱなしだし。疲れを感じる。

 

教育の棚の反対側は心理学でまじかーここかーと思いながら眺める。心理学の細分化も凄いな。ストレス心理学という本もあった。個人的に心理学は個体経験で十分賄えるので研究してもしきれんやろという見解。条件付けとか面白いと思うけど。この下の列は哲学でユングの「原型論」の分厚い本とか、意識は0,5秒後にやってくる話とか、美味しそうな本が目白押しだった。結局脳繋がりで、「私は脳ではない」にした。序論を全部立ち読みしてホモサピエンス全史と食べ合わせ良さそうで。

 

意識とは何ぞやの話なのだけど、意識という概念も人類の歴史からすれば最近生まれたものだということから始まる。僕はこういうのを発明品だと呼んでいる。宗教とか法律とか倫理とかもそうだろうな。自然科学における現象の方程式化は発見されたものだけど、意識は発見されたものではない。

 

ここで、最近ちょこちょこ考えている鍋に、語彙と世界認識の相関というものがある。どこかで外国人は虫の声が生活音から独立して把握できないという話を見たのは割と前なのだけど、ふと、これは日本人の耳の聞き分ける機能が高いということではなくて、擬音語として虫の声が用意されていることによるではと考えた。厳密にどちらが先かは分からないし検証がしようもない。もしかしたら生活に関係ない世界を見るという傾向にあって、その中には虫の声もあったということかもしれないし。もともと雰囲気とか空気に当てる語彙が多いような。他の言語はあんまり知らないからなんとも言えないところ。外国語も要るのかぁ。

 

語彙による世界認識の共通項があるかどうかによって「私たち」と「彼ら」が分けられるというのも分かる。僕ももう愛媛の方言は対母親にしか使わないけど、愛媛と聞くとなんとなく愛着を感じるし。文化は言語だけではなく生活も含まれるけど、それを外に伝える手段は言語しかないしな。いや、記録とか物証とかもあるか。

 

そうして、精神ないし意識の話に戻って来る前に。

 

本日の工程としては、帰ってきて本を読もうと思ったけどむずむずにより40分くらいで公募用の自己紹介等の文章を書いた。書いているうちに勝手に言語されてなるほどなと思ったのが、社会に閉塞感があるときほど演劇って重要よなというフレーズ。物理的に動きが制限される時代にこそ心を動かす芸術が必要。こういうのカタルシスっていうのだっけ。どうでも良いけど、ジュリエットって無垢な可愛さがあるな。ロミオはただのイケメンって感じだけど。接吻という単語が好きだ。接吻して罪が浄化されましたというロミオ、ではその罪は私に移ったのですねとジュリエット、では返してもらいますとロミオ(もう1回したいだけやろ)、接吻ごときでおおげさねとジュリエット(背伸び感)。その後の、両家が仲違いしているのに好きになってしまったという下りも悲劇のヒロインぽくて可愛い。

 

 

まだ送ってはいない。添付する文章どうしようかなと。好きな人が独り占めしているのであれば、あれを貼るのもどうだろうなと思わなくもなく。送信は今週末だな。

 

 

はい、戻る。

 

意識は自然かという命題。デカルトさんの魂は松果体にあると同じく、意識は脳という自然に含まれるというのが蔓延っている。この作者デンマークの人なのだけど、問題意識が共通しているなと思った。物理的な自然法則が適用される場を宇宙とするという定義はとても好き。あと、哲学用語の中身を説明してくれることも好き。専門書ってだいたい専門用語は自明として語るから。

 

で、意識は自然法則に従うことでしか宇宙に現われないのも分かる。例えば言葉は、流通するように言語化することで人から見られるものになる訳で、僕の日記がこれ。でも意識の宇宙への現われって、現実世界で見ると発話だけにはとどまらないはず。どういう風に振る舞ったかみたいな非言語とか意識として可視化されていない自分が顕れることもあるだろうし。

 

サルトルが、社会において役割を演じる自由があるみたいなことを言ったらしいけど、なんだかたしかにそんな感じがする。こういう社会的な自然として人を見たとき、諸々の現実化されてない個体の意識なんて見ていたらきりがないから、人は目的をもって行動しているのだという観念が発明される。これが目的的行為論ということらしい。

 

観察できる、観測できる人の現実にはコンテキストがあるという建前。これが拙いなって思うのは、人は目的がない行為もしているでしょうというところ。例えば、制作日誌の中に寒空の中で、ピアノの弾いている人を見かけて意志を感じるというシーンがあったけど、ピアノがあればどこでも弾いてしまうという性質を持った人であればここにあるのは意志ではない。そうしないではいられないというのは意志ではなく傾向でしかないでしょう。

 

という感じで、僕は人が何かをするとき、意志だとする必要もないという立場。なんというか、目的があるのであれば、それが目的であると考える前に行動しているはずで、意志であるではなく、意志であったとなるのではと思うし。好きな人に目的とか動機とかを聞いていたのも、意志的に人を捉えるのであれば、自分もそうだよねという確認みたいな感じ。

 

今はもう切り離したので別になんにも気にならない。

 

目的的行為論は刑法で出てきて何ぞやと思っていたけど、やはり哲学由来だったのか。おそらく存在の観念も発明品だろうな。

 

僕は自分の宇宙への現われは別に意志ではないと思っている。タイミングとか縁とか自分とはあんまり関係ないところにある。言語化もたまたま現われた一角だし、言語化していないところの方が自分だし。

 

おう、もうこんな時間。

 

おやすみなさい。