外も内

 

 

 

何をしていても怒涛のように時間は流れていく。だったら自己満足を突き詰めるほかはない。量子論的時間の使い方みたいな本を立ち読みしたが、なんとなく実践している気がする。意識はフォトン(光子)であって、意識の現実化は化学作用だというのも分からんでもない。

 

言葉も波なのだから、言葉を発する意識も波打っていると考えても良い。

 

 

さておき。

 

未来の現実化にはもうちょっと。出勤前に1時間ほど時間を作れた。コーヒー飲みながら乳酸菌ショコラ(チョコ)を2欠片食べ、読書したら1日内部が元気だった。しかし、予定を完璧にこなしたとしても僕は自分を褒めない。これは無価値性から来ているのではない。褒めないとしないのは人間性に欠けるみたいな仰々しいことでもなく、自分のもともとの性質として、褒められるとやや萎えるという天邪鬼気質があるから。価値を媒介としないのもむしろこっちから来ているのかも。

 

明日はもう1声。

 

昨日の日記だと、女性の足ばかり見ている変態みたいだが、別にそれだけ見ている訳ではない。変態で変人であることは認めるが。何か見ようとして世界を見るべくもなく見ていると、色々目に入るだけ。今朝は自転車で通勤中の男性の背中がチラリズムになっておりギョッとしていると、手で直していて、あぁ自覚あったのかと思う。帰り道のコンビニの喫煙スペースでタバコを吸いながら、角ハイボールの500ミリ缶を飲んでいるスーツを着た人が居て、あぁこの人昨日も居たなとなる。家帰ったら飲めないのだろうか、何か物語を感じる。

 

動的な焦点としてはもう1つ。遅番の弁当時間はだいぶ遅くて、おやつ時くらいなのだが、空中庭園の方に向かうと、年配の男性3組が向かい合ってベンチと屋根付きテーブルの椅子に座っていて、これはアレだと思い、空いたベンチに座る。予想通り、将棋盤を挟んで談笑。良き過ごし方だ。なんなら参戦したいくらい。そうして、目の前の花壇を見ると、新しい名札。「ハツユキカズラ」。花は咲いてなかったが葉が鮮やかな黄色だった。調べてみると季節で変わるらしい。

 

 

本日はいかにも外に向いている。そうして外を見ている方が綺麗なものばかり目に入り気持ちが良い。生活圏の日常でこれなのだからどこかに行ったらもっと凄いのだろうな。日々に特別がないなんてことはない。

 

昨日の寝る前、青空文庫田山花袋さんの「ある時に」というまた20ページくらいのエッセイを読んだ。要点は、分からないのが楽しいみたいな趣旨で、なんとも昨日の気分と合っていた。もっと細かく言えば、自然とか人間は因果とは別のメカニズムがあって、そんなことは一生分からないみたいな(独訳)。ついで新しい言葉も2つ収集。「趨く」と「端倪」。「趨く」は赴くの昔の書き方っぽいが、なんとなくカタチが良い。「端倪」は意味が良かった。「物事の始まりと終わり」。使い方は端倪すべからざる、で推し量ることができないとかなんとか。なるほど、端って始まりって意味なのか、発端ってそういうことなのかとなる。

 

別に新しい発見が好きとか、向上心があるとかでもないのだろうな。おそらく自分嫌いの極致で、今の自分ではなくなる為の挙動としての収集癖。物や知識を集めたって自分は変わらないが、概念を集めれば認識が変わる。あえて自己観を規定値にしなくてもポリシーみたいなものは非言語でできあがっている。相対的な個性があろうがなかろうが個人は個人である。

 

次の概念としては美学なのかな。人が何をもって美とするのかと、人自体の良く分からん感じってとても近いところにあるような。意識の概念も近いとは思うが、意識は自分のものしか認識できないのと違って、美は共通項とできるぶん枠が広そう。僕はおそらく何かだけに集中して探求していくということができなくて、ある分野の認識のために別の分野を流用していかないと分からない。つまみ食いをしているのではなく、この方法しかなかったのだろうな。

 

やれやれ。

 

寝る直前は抱き枕の購入を考えるくらい切なくて、それが嬉しいと感じる変態。何も知らない、どういう認識をされているかも分からないとは無関係な自分の気持ちに正直で居ようと思った。気持ちに素直になったところで境界線は越えるべくもなし、内部しか変わらない。好きなものは仕方がない。

 

目が覚めて、おそらく30年後とかでもこの精神性なのだろうな、と一種の諦観が流れる。例えば10年前よりは楽になっているが、それでも自分に安心していることはなく、おそらく一生そんなことにはならない。完全に諦めてしまうまでにはもう少しかかりそう。

 

意識はフォトンなのだという話だが、たしか光って波の性質と、粒の性質があるのだったか。あんまり細かい話は知らない。ただ、意識によって物体としての体に影響があるというのは、言霊とか、ネガティブな意識が体調を崩すとか、もろもろで実証されているような感じ。音楽聞かせたら植物が良く育つとかも似ている。あと、特定の人の側だと安らぐとかも。

 

要は、常識を排して感覚だけで捉えたら、割と当たり前のことなのかもなということ。時間が長くなるみたいな方法論が出ていてあぁこれやっているわとなり、僕は何処に趨いているのだろうとなる。

 

まぁ、行けるところまでだろうな。

 

 

では、おやすみなさい。

 

本日も良い夢を。