きょくげん

 

 

明日の夢を見た。市というよりは祭の様相。夢なので高校の同級生達と3人で歩いている。1人はあの人だと分かるのだが、もう1人は具体的な個人に特定できない感じ。帰り道、エスカレーターを降りようとすると、登ってくるカップルが見える。これも高校時代の人。3年の時の室長と、当時彼が好きだった人(現実では結ばれていないが、今はどうなっているか知らない)。

 

なんとも楽しそうだったから見つからないようにパーカーのフードで顔を隠したが、相手も同じことを思ったらしくフード被ってすれ違った。フリマのシーンよりここの方が鮮明だったな。

 

さておき。

 

本日は買い物に出かけたが、頭の中はぼーっとモード。好きなテニスの漫画を電子版で衝動買い。読みながら電車とモノレールに揺られていた。科学的で面白い。恋愛モードと戦闘モードは心理的に対極にあるとか、座禅とゾーンは近いところにあるとか。

 

確かに「いま」ではないことが頭を占めていると意識のバランスが崩れる。僕にとっては宵顔さんの存在がモロにそうなのだが、別に悪い気分はしない。一瞬卑屈になりそうになったが。

 

そういえば、このぼーっとモードで本を読むと書かれていることが全然頭に入ってこない。文字の並びとしては捉えられるし意味としても分かるのだが、自分で読んでいないという感じがする。この流れで、僕は言葉をとんでもなく勘違いして読んでいるのではという不安感が生じる。セルフ失読症みたいな。

 

実際きちんと読めているという確証は起りえないのだな。

 

これに近い感覚として、休み明けの仕事の開始時に、僕はきちんと発話できるのか、話せないかもしれないという不安がある。発声ではなく日本語を話せるのかという意味。失語症と一致しているのかは分からないが、声が出なくなったことは実際何回かあるな。なんだか重大な疾患ちっくに書いているが、これと一緒なのがもう1つあって、それと共通項だとすればなんのことはない。

 

「僕は勉強ができない」にあった、「意識的に歩こうとすると歩けなくなるのと同じように、考えることを意識するとちぐはぐになるのでは」というやつ。僕は意識的に歩くというのは意識できるようになった。この瞬間にどの筋肉が動いて肩甲骨が稼働してというところまでは細かくないが、意識的に速く歩くとか、ゆっくり歩くとか、腿裏の筋肉を使うとか、腕は後ろに動かすとよく歩けるとか。

 

今日はぼーっと歩いていたから一定速度だった。周りの人の歩速に自動的に合わせている。

 

ちょっと道を逸れて考えることについて。

カズオさんの本を読んでいてふと思った。AIにとって思考は具体的な作業=人間でいうところの意識的な所作なのだろうなと。AIの発展に対する不安の全てとは言わないけど、人間自体が思考をブラックボックスとしていることは原因に含まれそう。神経経済学でも意思決定のプロセスはずっと学問上でもブラックボックスだったと書かれていたし。

 

考えた結果は現象化される。考えている状態も言語化できる。でも、思考とはそもそもなんぞやを定義できない。AIについてはまだ詳しくないが、プログラムって明確に何をどうするかという目的を書き込まないといけないから、人間のように思考するようになるのは不可能ではという感じ。人間の思考はそこまで目的が明確化されていない。

 

具体的に何かを選ぶために考えるという思考を取り上げてみても、それぞれの要素の重みを明確に数量化している訳でもないし。

 

僕としては、現象を決めることは「考える」の範囲外のことでは思うが。むしろ検討とか検証とか試行とかになる。カズオさんの小説の主人公であるAFのクララが人の気持ちを考えているのだが、これは現象(しぐさとか言葉とか表情とか)と、一般的データの照合であって考えるではないよなと思った。

 

いや、昨日書いた集合的無意識みたいに、集合的思考としての「考える」を捉えることは問題ないが、これだと自分が「考える」の中で何をしているのかは意識化できない。

 

持論としての考えるはなんなのだというと、おそらく創造と近いところにあるのが中核なのではという感触。

 

 

戻ってきて。

 

失読症失語症の感覚は、意識的にそれをしようとしているという段階としては正しい感覚だと思った。どちらも対人関係に近いところで、人の言葉は思い込みで読んではいけない、人に話す時に自分の言葉に対して無意識であってはいけない、みたいな。

 

これは、きちんと自分で生きてこなかったツケとも言える。流されては駄目だったのだろうな。流されたまままっとうできるくらいまで微睡みのままでいられたら良かったのだが、目が覚めた時点でこういうルートでは生きられない。

 

「話すこと」は無茶苦茶大変。自分が話す語が、自分の意図した意味として通じるためには、相手にも同じような語彙がないといけない。ここについては割と諦めていたところがあるが、やろうとすればできるくらいにはしておきたい。という意味では今の仕事場、最適なのだよな。

 

「読むこと」は、意味が開かれた小説とかの書物であれば問題ないが、発話的な書き言葉だとこれも大変。ほとんど何が書かれているか分からない。自分の一般論で埋めるしかないのだが、埋めたくもないから、空白のまま捉える。

 

ここまでで、おそらく人はそこまで考えてないから考え過ぎだという感想が出てきそうだが、そんなことは知っている。ただ、何かをやめとけって言う人に流されるのは人生的に悪手だった学習があるから、できるところまで突き詰めたい。人に否定的評価をする人って自

分のコンプレックスを攻撃しているだけだもんな。

 

ここに「書くこと」が出てこなかったのは、書くことは無意識ではできないから。どれだけ酔っぱらったとしても、まとまった文章を書くというのは自分でしかできない。ついでに僕の書き言葉は、どう読まれるかにおいて完全オープンだから、読んだ人の中にだけにしか意味はない。

 

文章を書くのは読まれたいからだというのは理解できるのだが、僕はそういう意味の承認欲求がとんとない。SNSで充実感をアピールする人はそれで承認されたいのだというのを何処かで見た。常々思っていたが、まぁそういうことなのだろうなと思うと、匿名的多数に承認されるっ、尽きない欲望であって苦行感がある。承認している人は当人の虚構的な幸せしか見ていない訳で、綺麗な世界を承認することで逃避したい人達。

 

アイドルという偶像崇拝みたいな。

 

この辺り突き詰めて行くと、社会学とか宗教学とか群衆心理学とかでいまの僕では読み解けないわ。

 

「芸術学」で「感動」とはなんぞやという話があった。

 

僕としては、対象に圧倒されて鳥肌が立つという事象なのだが、どうだろう。

ここでも書かれていたが、感動とは泣ける物語ではない。これだと自分が泣けることに重きが置かれている。そうではなく、対象に価値があることを前提にして、自分が動くこと。自然だと分かり易い。畏怖とも近い。

 

現実から引きはがされるというフレーズがあったが、人ってなんでそんなに現実に固着しないといけないのだろう。体は守ってくれるかもしれないが、心には無頓着なのに。

 

ここまで。

 

宵顔さんの現実的物体がある意味どうでも良いのは、この人が書いた作品に感動したからなのかとふと思った。

 

明日は感動してきます。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。